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教皇の意向:女性の役割 (4月)

年間第十七金曜日(8/4)

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この人は大工の息子ではないか。

マタイ13:55
集会祈願

🌸 第一朗読 (レビ23.1、4-11、15-16、27、34b-37)

 1主はモーセに仰せになった。
 4以下は主の祝日であり、その日あなたたちはイスラエルの人々を聖なる集会に召集しなければならない。
 5第一の月の十四日の夕暮れが主の過越である。 6同じ月の十五日は主の除酵祭である。あなたたちは七日の間、酵母を入れないパンを食べる。 7初日には聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。 8七日の間、燃やして主にささげる献げ物を続けて、七日目に聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。
 9主はモーセに仰せになった。
 10イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。
 わたしが与える土地に入って穀物を収穫したならば、あなたたちは初穂を祭司のもとに携えなさい。 11祭司は、それを主に受け入れられるよう御前に差し出す。祭司は安息日の翌日にそれを差し出さねばならない。
 15あなたたちはこの安息日の翌日、すなわち、初穂を携え奉納物とする日から数え始め、満七週間を経る。 16七週間を経た翌日まで、五十日を数えたならば、主に新穀の献げ物をささげる。
 27第七の月の十日は贖罪日である。聖なる集会を開きなさい。あなたたちは苦行をし、燃やして主にささげる献げ物を携えなさい。
 34第七の月の十五日から主のために七日間の仮庵祭が始まる。 35初日に聖なる集会を開きなさい。いかなる仕事もしてはならない。 36七日の間、燃やして主にささげる物をささげ続ける。八日目には聖なる集会を開き、燃やして主にささげる物をささげる。これは聖なる集まりである。あなたたちはいかなる仕事もしてはならない。
 37以上がイスラエルの人々を聖なる集会に召集すべき主の祝日である。あなたたちはこれらの定められた日に、燃やして主にささげる焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、和解の献げ物、ぶどう酒の献げ物をささげる。

🌸 答唱詩編 詩編81  典162 ①②

アレルヤ唱 典270 57

🌸 福音朗読 (マタイ13.54-58)

マタイによる福音

 54〔そのとき、イエスは〕故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。 55この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。 56姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」 57このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、 58人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 つい、先日の主日にはマルコ福音から、同じ内容が読まれた。イエスが生まれ育った人々の反応、「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は、大工の息子ではないか。母親はマリアといい、・・・」まさか、自分たちの中で育ったあのイエスがこんなことをしでかすとは。「人々はイエスにつまずいた」、とはっきり記す。

 そうした故郷ナザレの人々の反応はどの福音書も記しており、ルカに至っては、イエスの活動のはじまり、いわば、第一声の後、人々がイエスをナザレの会堂から連れ出し崖から突き落とそうとした、とショッキングなことまで記している。なぜ、そんな出来事を、福音書の冒頭にあえて記したのだろうか。しかし、実は、ヨハネ福音書の荘厳な序文の中にもこんな言葉がある、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1.10、11)と。人となられた神の子イエスは、故郷の人々だけでなく、神によって選ばれたイスラエルの民、御自分の民によって受け入れられなかった、と福音記者はそろって記しているのである。一体これはどういう意味だろうか。

 人間には、人間を超えた存在が介入することを、根本的に恐れ、拒否する本能が働くのだろうか。自らの弱さ、不完全さに気づかず、現状に満足し、傲慢とかたくなさを批判する者を許そうとしない頑迷さが巣食っているからだろうか。神の存在を認め、神を礼拝することを学びながら、神がどこか遠く、人間の手の届かない高いところにいる存在、あるいは、人間の必要な時にだけ、人間の求めに応じる、人間の操作に従う便利な道具のように考えているからだろうか。神をあくまで、人間の自律を脅かすことのない、無害な存在として奉っているからだろうか。

 イエスは、そうした人間の傲慢と不信に挑戦される。しかし、それは力によってではなく、自らの弱さによって、自らの十字架の死によってである。自らの貧しさ、弱さ、罪深さを認めるもの、労苦する者、重荷を負う者、それによって、心が砕かれ、心を神に開くものにだけ、御自分を現わされる。

 わたしたちの内に潜む傲慢さ、尊大な心を認め、へりくだりの心が与えられ、そうした思いを深めることにつながるような経験を恐れずに受け入れ、少しでも、主の招きに応えて歩んでゆくことができるよう祈ろう。(S.T.)

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