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第55回「世界広報の日」教皇メッセージ
(2021年5月9日)

「来て、見なさい」(ヨハネ1・46)
人々と、彼らのいる場で、そのままの彼らと会って、伝えなさい

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 「来て、見なさい」という招きは、イエスと弟子たちとの感動的な最初の出会いの場面ですが、これはつねに人間にとっての真のコミュニケーションの方法でもあります。物語となる人生の真実(「第54回世界広報の日メッセージ(2020年1月24日)」参照)を伝えるためには、「もう分かっている」という呑気なうぬぼれを捨て、行動し、会いに出掛け、人と過ごし、その声を聞き、現実――その何かが必ず驚きをもたらします――からの示唆を受ける必要があります。「見るものに驚いて目を丸くし、その新鮮な清水を両手いっぱいに受けなさい。そうすれば読者は、胸躍らされるいのちの奇跡に、じかに触れることができます」。そのように福者マヌエル・ロサーノ・ガリード1は、ジャーナリスト仲間に助言しました。ですから今年のメッセージは「来て、見なさい」との招きをテーマとし、新聞記事でもインターネットでも、普段の教会での説教でも、政治や社会的な会見においても、あらゆる伝達表現は明快で率直であるべきだという提案としたく思います。「来て、見なさい」、――これが、ヨルダン川やガリラヤ湖のほとりにおけるあの最初の出会いに始まる、キリスト者の信仰が伝えられてきた方法なのです。

靴底をすり減らしなさい

 報道という大きな問題について考えてみましょう。かなり以前から、「広報紙化した新聞」、テレビ、ラジオ、また実質的にはそれらと同等のネット上での報道が画一化する危険について、警告の声が上がっています。調査取材や現場報告のたぐいは紙面から削られ、質も落ち、事前に整えられた情報、「官邸からの」情報、独善的な情報に取って代わられ、物事の真実や人々の実際の生活を捉えることがますます難しくなっています。そこではもはや、きわめて深刻な社会現象も、社会の根底から発せられる前向きな力も、どのように捉えればよいのか分からなくなっています。新聞・出版業界は、現場に出ず、「靴底をすり減らす」こともせず、人と会って経緯を探ったり事実を直接確かめたりすることもしません。むしろ編集部の事務所で、コンピュータの前で、通信社の支局で、SNSを元に、出来合いの情報を伝えている危機があります。技術革新には、わたしたちがそこに没入しているかに思える拡張現実(AR)を現前させる力があるとしても、わたしたちが出会いに向けて開かれていなければ、変わらず外にいる傍観者のままです。どのツールも、それによって初めて知りえたものを見に行くようわたしたちを突き動かすならば、それによって初めて流布したネット上の知識を自分のものにできるならば、それによって初めて生じた出会いが得られるならば、有用で貴重なものとなるのです。

福音書における詳細な記事
 
 ヨルダン川での洗礼の後、イエスは、ご自分のことを知りたいという最初の弟子たちに、「来なさい。そうすれば分かる」(ヨハネ1・39)とこたえ、ご自分とのかかわりの中で生きるよう招かれます。それからおよそ半世紀、老齢となったヨハネがその福音書を記す際、いくつか詳細な「記事」を残して、自分がそこにいたこと、その体験が自身の人生に与えた衝撃を明かしています。「午後四時ごろであった」と記しています(39節参照)。その翌日――ヨハネは続けます――、フィリポはナタナエルに、メシアと会ったことを伝えます。その友は「ナザレから何かよいものが出るだろうか」といって、信じようとしません。フィリポはことばを重ねて説き伏せようとはせずに、「来て、見なさい」といいます(45-46節参照)。ナタナエルは行って、見ます。そのときから、彼の人生は変わります。キリスト者の信仰はこうして始まるのです。伝聞ではなく実体験で、じかに得た情報として伝達されるのです。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、分かったからです」――イエスが滞在した村の人々は、後にサマリアの女にそういいます(ヨハネ4・39-42参照)。「来て、見なさい」――これが、現実を知る方法の初歩の初歩です。各報道内容のもっとも確実な検証方法です。把握するためには、会って、目の前にいる人に語ってもらい、その証言を自分で受け止めなければならないからです。

多くのジャーナリストの勇気のおかげで

 現実を伝えるものとしてジャーナリズムもまた、だれも行かない場所に行く力、行動力と見ようとする意欲を必要とします。好奇心、開かれた心、そして情熱です。その道のプロとなった多くの人――ジャーナリスト、カメラマン、編集者、ディレクターなど、しばしばとても危険な目に遭う人たちです――の勇気と熱意のおかげで、世界のさまざまな地で迫害を受ける少数派の苦境を今日知ることができ、貧しい人や被造物に対する多くの虐待や不正行為が非難されるようになり、忘れられた多くの争いが伝えられているのです。彼らの声が消えてしまえば、それは報道にとってだけでなく、社会全体そして民主主義にとっても損失となるでしょう。わたしたち人類が劣化してしまうのです。

 地球上の多数の現実が、このパンデミックにあってはなおのこと、報道メディアに対し、「来て、見よ」と呼びかけています。このパンデミックについて、他のあらゆる危機と同じように、富裕国だけの目を通して、「複式簿記」で伝えてしまうおそれがあります。ワクチンをはじめ医療全般について、それがいちばんの貧困地域の住人に行き渡らないおそれについて考えてみましょう。アジア、ラテンアメリカ、アフリカの貧しい村の医療への待望を、伝えてくれる人がいるでしょうか。そのように、地球規模での社会的・経済的格差によって、新型コロナウイルスワクチンの配布順位が既定されるかもしれないのです。貧しい国々は、いつでも後回しにされます。健康である権利が万人に原則としてうたわれていても、実態は違っています。非常に恵まれている国にあっても、急激に貧困に陥る家庭のことが社会問題となっていますが、それはほとんど表面化していません。食品支援を受け取るために、羞恥心を捨てて、カリタスの施設前に並ぶ人々の窮状は、ニュースとしてほとんど取り上げられていないのです。

ネット上の好機と落とし穴

 インターネットは、その無数のSNSサービスによって、伝え、共有する力を倍増させることができます。だから、多くの目がますます世界に開かれ、画像と証言が発信され続けます。デジタル技術により、生の情報に瞬時に触れる可能性が広がりました。時にそれは非常に有益なものです。第一報や最初の公式発表が伝えられるのがまさにインターネットである緊急事態を思い出してみればいいでしょう。インターネットは、とてつもない力をもったツールで、わたしたちだれもが、利用者、消費者として、責任を負うよう求められています。潜在的にはだれもが、従来のメディアは取り上げないであろう出来事の証人となり、社会に貢献し、よいものも含め、より多くの出来事に光を当てることができます。インターネットのおかげでわたしたちは、目撃したこと、目の前の出来事を伝える可能性、証言を共有する可能性を手にしています。

 ただ、検証せずにSNSで発信する危険は、今や、だれの目にも明らかです。ニュースそして画像さえもが、さまざまな意図から、場合によってはつまらない自己陶酔のためだけに、簡単に捏造されるのを散々見てきました。こうした批判的見解は、インターネットを忌避させるのではなく、コンテンツを発信する際と受け取る際の識別能力の向上と責任感の強化を求めるものです。だれもが自分たちのやりとりに、シェアする情報に、フェイクニュースを皆で明らかにするチェック機能に責任を負っています。わたしたちは皆、真理の証人となるよう招かれているのです――来なさい、見なさい、伝えなさい。

直接見ることに代わるものはない

 コミュニケーションにおいては、直接見ることに代わるものは何もありません。経験しなければ分からないことがあるのです。人はことばだけでなく、目や声の感じ、行為によっても物事を伝えます。出会った人々を引きつけるイエスの強い魅力は、説いておられることが真理であるために生じたものですが、そのことばのもつ説得力は、まなざし、態度、さらには沈黙とも無縁ではありません。弟子たちはイエスのことばを聞くだけでなく、話しておられるイエスを見ていました。ヨハネが記しているように、まさにイエスに―人となられたみことば―において、みことばはみ顔となられ、目には見えない神は、ご自分を見え、感じられ、触れられるものとなさったのです(一ヨハネ1・1-3参照)。ことばは、それが「見てもらえる」ときにのみ、あなたを経験の中に、対話の中に、巻き込むときにのみ力を得ます。だからこそ「来て、見なさい」という呼びかけは、かつても今も必要不可欠なのです。

 この時代においても、社会生活のあらゆる場面で、商業においても政治においても、いかに中身のない弁舌が氾濫しているかを考えてみましょう。「(彼)の無駄口ときたら、まさに窮(きわま)るところなし、……一俵の籾殻の中にまぎれこんだ一粒の小麦みたいなもの、見つけだすのに一日がかり、見つかったはいいが、見ればその甲斐なしという代物さ」2。英国の劇作家のこの痛烈な台詞は、キリスト教の伝達者であるわたしたちにも通じるものです。福音のよい知らせは、人と人の、心と心の出会いによって世界に広がりました。それは、「来て、見なさい」というあの呼びかけにこたえた人たち、イエス・キリストをあかしした者のまなざし、ことば、行為に透けて表れる「あふれる」人間性に胸を打たれた人たちです。すべてのツールが大切です。タルソス出身のパウロと呼ばれたあの偉大な伝達者も、EメールやSNSを利用したに違いありません。ですが、彼の説教を聞き、幸運にも彼とともに過ごし、集会で、あるいは個人的に話をする中で彼と会った同時代の人々の心を捕らえたのは、パウロの信仰であり、彼の希望であり、彼の愛にほかなりません。パウロのいるときにその行動を見て、神の恵みによって彼が伝えている救いの知らせが、いかに真理であり、人生にとって有益なものであるかを検証したのです。この神の協力者が直接会いに行けない場所には、その弟子が遣わされ、キリストに結ばれた自身の生き方をあかししました(一コリント4・17参照)。

 「わたしたちの手には聖書が、目前には現実がある」3。聖アウグスティヌスはこう主張し、聖書にある預言の正しさを現実の中に見いだすよう勧めました。このように、イエスとの出会いによって生き方が変えられた人々の明快なあかしをわたしたちが受け入れるたびに、福音の出来事は今日にもまた起きているのです。二千年以上もの間、連綿と続く出会いによって、キリスト者の冒険の魅力が伝えられてきました。ですから、受けて立つべきわたしたちの課題は、人々と、彼らのいる場で、そのままの彼らと出会うことで伝えることなのです。

主よ、教えてください。
自分の内から出ること、
真理を求めて歩き出すことを。
来て、見るよう教えてください。
聞くこと、
偏見を深めぬこと、
結論を急がぬことを、教えてください。
だれも行きたがらないところへ行くこと、
理解するために時間をかけること、
本質的なものに目を向けること、
うわべだけのものに惑わされぬこと、
真理とそれと見まごうものとを識別することを、教えてください。
あなたがこの世におられることに気づけるよう、恵みを注いでください。
見たことを人に伝えるために欠かせない、誠実さをお与えください。

ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて
2021年1月23日
聖フランシスコ・サレジオの記念日
フランシスコ

源:カトリック中央協議会
原文:«Vieni e vedi» (Gv 1,46). Comunicare incontrando le persone dove e come sono

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