♰ キリストにおいてすべてを新しく見る ♰

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教皇の意向: 新たな殉教者 (3月)

復活節第五主日(5/2)

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主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。

2テモテ4:17b
集会祈願

いのちの源である神よ、あなたは信じる者を見捨てることなく、養い育ててくださいます。キリストのからだとして一つに集められたわたしたちが、愛と一致のきずなを深めることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

🌸 第一朗読 (使徒言行録9.26-31)

 26〔その日、〕サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。 27しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。 28それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。 29また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。 30それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。
 31こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。

🌸 答唱詩編 詩編22 典32 ①②④

:神に向かって喜び歌い、
  感謝の歌をささげよう。

神の恵みによって、民の集いで賛美をささげ、
神をおそれる人々の前で、
わたしは誓いを果たす。
貧しい人はかてに恵まれ、
神を求める人は賛美をささげる。   【答】

遠く地の果てまで、すべての者が神にたち帰り、
生きる喜びで彼らの心はいつも満たされる。
諸国の民は神の前にひざをかがめ。
わたしたちの国は神の者、
神は諸国を治められる。   【答】

彼らは主のわざを次の世代に語り継ぎ、
あとから生まれてくる民に、
神のわざ、
その救いを告げ知らせる。   【答】

🌸 第二朗読 (一ヨハネ3.18-24)

 18子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
 19これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、 20心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。 21愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、 22神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。 23その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。 24神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。

アレルヤ唱 典264 第五主日B

アレルヤ、アレルヤ。わたしのうちにとどまりなさい。わたしもあなたがたのうちにいる。わたしにとどまる人は多くの実を結ぶ。アレルヤ、アレルヤ。

🌸 福音朗読 (ヨハネ15.1-8)

ヨハネによる福音
 1〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

奉納祈願

聖なる父よ、復活のいのちを喜び祝うこの食卓をとおして、わたしたちをあなたに仕える民としてください。ご自分をささげたキリストの心に近づくことができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

拝領祈願

いつくしみ深い父よ、わたしたちは新たないのちに満たされ、今、派遣されていきます。御父への道であるキリストを喜びをもって伝えていくことができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 今日は5月の連休前の日曜日です。本来ですと、季節的にも、一番明るく、浮き浮きとした気分になるときですが、今年は、昨年に続き、コロナの影響で、家に留まることが強く勧められています。どう過ごしたらよいのか、いろいろ戸惑いもあるのではないでしょうか。

 広島教区の白浜司教から、特に、ミサの停止の指示はありませんが、皆さまの中には、はたして教会に行ってよいのだろうか、クラスターは出ないだろうか等、心配される方もおられるかもしれません。3日ほど前にいただいた司教様からのお知らせでは、昨日5月1日は、労働者聖ヨセフのミサを捧げるように、そして、今日、5月2日のミサでも、聖ヨセフの取次ぎを願って、コロナの終息と、コロナで様々な苦しみを負っておられる方のために祈るようにと勧めておられます。また、中央協議会からのお知らせでは、5月の「聖母月」の間、コロナに苦しむ全世界のために、聖母に向かってロザリオの祈りを捧げるように、とのフランシスコ教皇の呼びかけが伝えられています。

 こうした状況の中で、今日の典礼、特に、福音を読みますと、とても味わい深いものを感じます。ヨハネ15章は、最後の晩餐での主イエスの長い説教から取られたものですが、今日の話の中心は「ぶどうの木」のたとえです。その中で、イエスは、ぶどうの木、農夫、枝、そして、ぶどうの実の関係について、やさしく説いておられます。ぶどうの木の枝が幹につながっていなければ、実を結ぶことができないように、わたしたち、主の弟子となったものも、木である主イエスにつながっていなければ、決して実を結ぶことができない、と教えられます。そこには、「つながる」(留まる、とか、付いているとも訳される)という動詞が何回も出てきます。「つながる」は現代の若者たちにとって、案外、ピントくる言葉かもしれません。スマホやメールで、友人と、あるいは、見ず知らずのだれかとのつながりが欠かすことができない日課になっている人は少なくないでしょう。コロナ禍で、密にならないように、外出を控えるようにと言われれば、一層そうした、間接的な人とのつながりを強く求めることになるのかもしれません。

 イエスは言われます、「わたしにつながっていなさい。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことできないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことが出来ない」(4)と。人間だれでも、本能的に、だれかにつながっていたいと思います。それが、断たれるならば、それは耐え難い苦痛、孤独を意味します。直接顔を合わせずとも、つながっていると実感させる現代の機器は便利で、不可欠に思えますが、それは、決して本来の人間同士のつながりに代わるものではありません。

 主イエスとのつながりも、それと似たような面があります。コロナ禍で、直接人と会うことが難しくなり、教会にくることも制限されるようになると、わたしたちも、どこかで、不安や孤独を感じさせられるでしょう。昨年、細江教会に公式訪問で来られた白浜司教様は、その日の説教の中で、開口一番、「新型コロナウィルスの得意技は何だと思いますか。それは人を離すことです」と言われました。たしかに、コロナで公開ミサができなくなったり、できたとしても、人数制限をされたり、感染防止のための様々な条件を課されたりすると、つい、遠慮したり、教会から足が遠のく人がでてきます。残念なことです。しかし、安心のため、自分と周りの人々の安全を考えると、そうした決まりをおろそかにできません。

 教会に足を運ぶこと、それは、ただ信徒の務めを果たすためということではなく、教会において、わたしたちが神のいのちにつながる秘跡に与ること、主イエスがご自分の記念として行えと言われた、主の晩餐=ミサに与り、ご聖体をいただくためです。み言葉を聞き、その解き明かしを受けるだけでなく、自らを人が生きるための糧、パンの形で残された主ご自身との一致を体験するためです。一人の司祭もおらず、ミサもない、そんな状態の中で信仰を守った先輩たちが、いつも、心の中であこがれていた主の御体をいただくことです。同時に、同じ信仰で結ばれた仲間、兄弟に出会い、共に主を賛美し、感謝する恵みを表すためです。

 こうした恵みの手段を奪われた方、教会に来られなくなった方、秘跡に与ることが出来なくなった方に、どうしたら、主につながる道を開くことが出来るでしょうか。
たしかに、祈りはどこでもできます。家にいても、道を歩いていても、一人で生活していても、祈ることはできます。しかし、教会共同体との交わりなしの祈りは、どこか不安定です。祈るための力、励まし、共に主を賛美する喜びを体験することはできません。それ以上に、わたしたちの信仰は、わたし一人と神との関係ではありません。わたしたちが信じ、祈る神は、わたしの神である以前に、「わたしたちの神」、「わたしたちの父」です。そして、信仰における兄弟、仲間への思い、配慮、世話、協働なしに、わたしたちの信仰は弱体化します。

 「わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしを離れては、あなたがたは何もできない」、と言われた主の言葉を、一人一人の祈りの中で深めながら、この変則的な状況が1日も早く終息し、共に喜びをもって信仰を表明できますよう、聖ヨセフ、そして、聖母マリアの取次ぎを願って祈りましょう。(S.T.)

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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