♰ キリストにおいてすべてを新しく見る ♰

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教皇の意向:女性の役割 (4月)

四旬節第四主日(3/19)

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キリストはあなたを照らされる。

エフェソ5:14
集会祈願

🌸 第一朗読 (サムエル記上16:1b、6-7、10-13a)

 主はサムエルに言われた。「角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」
 6彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。 7しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
 10エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」 11サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」 12エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」 13サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。

🌸 答唱詩編 詩編 典

🌸 第二朗読 (エフェソ5:8-14)

  8あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。 9――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。―― 10何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。 11実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。 12彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。 13しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。 14明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。
「眠りについている者、起きよ。
死者の中から立ち上がれ。
そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」

アレルヤ唱 典

🌸 福音朗読 (ヨハネ9:1-41)

ヨハネによる福音
 1さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 2弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 3イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 4わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。 5わたしは、世にいる間、世の光である。」 6こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。 7そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。 8近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。 9「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。 10そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、 11彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」 12人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
 13人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。 14イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。 15そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」 16ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。 17そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
 18それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、 19尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」 20両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。 21しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」 22両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。 23両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
 24さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」 25彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」 26すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」 27彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」 28そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。 29我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」 30彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。 31神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。 32生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。 33あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」 34彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
 35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。 36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」 37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」 38彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、 39イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
 40イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。 41イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 昨日は天使幼稚園の卒業式、コロナの感染が広がった年に入園した子どもたちが、コロナ禍でも無事に3年を過ごし卒園して行きました。まだ、寒さが残りますが、確実にすべてのいのちがよみがえる春がそこまで来ています。

 今日の典礼のテーマは、光です。ヨハネ福音書の中は「光」についての印象的な言葉がいくつもあります。福音書の冒頭には、「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」また、「その光はまことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」とあります。さらに、今日の朗読の読まれなかった箇所には、「わたしは、世にいる間、世の光である」という言葉が記されています。

 今日の福音朗読の中で、イエスは、「生まれつき目の見えない人」の目を開かれます。生まれつき目が見えないということは、誰かが光について教えてくれなければ、光というものがあることさえ知らないということでしょう。はたして、生まれつき目が見えないということを、自分の身において考えたことがあるでしょうか。そして、その目が見えるようになった時の喜び、そして、感動を想像したことがあるでしょうか。イエスが、地面に唾をし、土をこねてその人の目に塗り、池で洗うようにと命じ、そのようにすると目が見えるようになります。

 人々は、その不思議、神の大いなる業を賞賛するのでなく、むしろ、彼をファリサイ派の人々のもとに連れて来ます。それが、安息日のことだったからでしょう。ファリサイ派の人々は、聞きます。どのようにして目が見えるようになったのか、と。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、洗うと、見えるようになったのです」と答えると、安息日にそのようなことを行ったイエスについて、ファリサイ派の人々の意見が割かれます。しかし、すでに恵みが働いたのか、盲人は言います、「あの方は預言者です」と。

 さらに尋問は続いて、盲人の両親が呼ばれます。しかし、彼らは、ユダヤ人を恐れて答えようとしません。それは、ヨハネ福音書が書かれた当時、イエスをメシアと公言する人は、会堂から追放されることが決まっていたからでしょう。 そして、再び本人が呼び出されますが、彼は、目を開けてくれた方が、神からの方であることをもはや憚らずに主張します。すると、ユダヤ人たちは、両親が恐れていたとおり、彼を外(会堂から)へ追い出した、とあります。その後、イエスは、彼が追い出されたことを聞き、「あなたは人の子を信じるか」と問います。そして、今日の福音の最後にあったように、彼は、「主よ、信じます」と言って跪きます。

 先週の福音では、サマリアの女がイエスとの出会いによって、喉の渇きをいやす水から、渇くことのない永遠の命に至る水へと導かれたことが読まれました。今日の、目を開かれた盲人は、この世のものを見る光だけでなく、かけることのないまことの光、神の世界を見る光を与えられたのです。

 イエスがこの世に来られたのは、まさに、人々が、この神の世界を見るようになるためでした。人間は自分の力で神の世界を見ることはできません。盲人がイエスによって、見えるようになったように、わたしたちもイエスによって、目を開いていただかなければなりません。しかし、ユダヤ人のように、自分たちは見える、神の世界のことは知っている、だれに教えてもらう必要がない、と思っていれば、いつまでも神を知ることができないでしょう。

 同時に、見えるようになると、目を開いてもらった盲人がユダヤ人の共同体から追い出されたように、そして、イエスご自身がユダヤ人から裁かれ、十字架に架けられたように、神を知らない人々の世界から締め出されることも覚悟しなければなりません。

 まことの光に浴する恵みをいただいたことを感謝するとともに、その恵みを日々生き、その喜びを勇気をもって人々と分かち合うことができるよう祈りましょう。(S.T.)

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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