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教皇の意向: 新たな殉教者 (3月)

待降節第一主日(11/27)

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目を覚ましていなさい。

ルカ24:42
集会祈願

🌸 第一朗読 (イザヤ2:1-5)

イザヤの預言
1アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。
2終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。
国々はこぞって大河のようにそこに向かい
3多くの民が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
4主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。
5ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。

🌸 答唱詩編 詩編122 典173 ①②⑤

🌸 第二朗読 (ローマ13:11-14a)

使徒パウロのローマの教会への手紙
 11〔皆さん、〕あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。 12夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。 13日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、 14主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。

アレルヤ唱 典255 第一主日

🌸 福音朗読 (マタイ24:37-44)

マタイによる福音
 37〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。 38洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。 39そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。 40そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 41二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 42だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。 43このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。 44だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 今日から待降節、教会の暦の新しい1年が始まります。今年は主日の典礼から言うと、A年、主にマタイ福音書が読まれます。同時に、昨年から準備が進められてきた新しいミサ式次第が今日から使われることになります。
 12月が目の前に迫り、町では、すでにクリスマスのムードが広がっています。教会にも、クリスマスのシンボルとも言うべき、馬小屋が準備されています。しかし、今読まれた福音を聞くと、どこか、つい先日まで読まれてきた世の終わりについての重苦しい雰囲気が伝わってきます。救い主の誕生を祝う喜びはどこにいってしまったのか、といぶかる方もおられるかもしれません。待降節は、確かに、主のご降誕、クリスマスを迎える準備の時ではす。しかし、それだけではありません。待降節に使われるAdvent という言葉は、お出でになる、到来するという意味の言葉です。世界を造られた永遠無限の神様が、人となってこの世に来られることを記念する「ご降誕」(クリスマス)が中心にあることは間違いありませんが、同時に、Adventは主が再び来られる、世の終わりに、救いの完成のために来られる再臨を記念する意味も含まれています。その時に向って、目を覚まし、気を引き締めて日々を過ごすようにと、クリスマスの喜びの前に、こうした厳しい内容の福音が読まれているのです。
 クリスマスは世界中の人々がお祝いする時です。キリスト教徒でなくても、イエスを信じていない人々でも、その喜びを共有します。しかし、それは決してゴールではなく、新しい出発の時です。最終ゴールはずっと先、いつのことか誰にも予想がつかない未来のことです。しかし、それは必ずやってくるのです。そして、それは、ただ厳しい裁きの時ではなく、奪われることのない平和、世界中の人々が待ち望んでいる平和が実現する時です。
 今日の第一朗読で読まれたイザヤの預言はそれを語っています。「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰より高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう』と。さらに、「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」と。そんな夢のような時代を遠くに眺めて人類は歩んでゆきます。今の時代、まだ、平和は実現しているとはとても言えません。平和を実現するために、まだまだ、果たすべきこと、解決すべきことが山ほどあります。国と国、民族と民族の間の軋轢、核兵器の開発、さらには、原発の問題、地球規模の温暖化や多発する自然災害の問題、難民や移住者の問題、貧困や格差、ひきこもりやいじめ、こうした国際社会、また、日本の社会が抱える問題を考えると、預言の言葉がいかにもむなしく、空々しく感じられるかもしれません。
 しかし、主イエスを信じる教会は確信しています。神はすでに勝利を収められた、と。父なる神から遣わされた独り子イエスは、そのいつくしみと愛に満ち、また父のみ旨を敢然と生き抜かれた生涯を通して、神の言葉を、神の力を、神の恵みを、この世にお示しになりました。ミサは、そのことの記念です。主が残された遺産、愛の実りである聖なるパンをともにいただくことによって、主の愛をひとりひとり自分のものとし、信じる神の民となるのです。ミサは祝祭です。しかし、ミサ、そして、そこでいただく主の御体は、救いの完成のとき、人の子が再び来られるときまで、砂漠のような世界を生きる神の民を養い、導き、力づける旅路の糧です。待降節は、まさに、そのような教会の状況を照らし出してくれる季節です。すでに与えられた恵みを振り返って感謝しながら、まだ訪れていない、いつの日かわからない人の子の再臨に向けて、主のみ言葉とパンを糧とし、日々歩んでゆくのです。
 パウロは言います、「眠りから覚めるべき時がすでに来ています。救いは近づいています。光の武具を身につけましょう。そして、主イエス・キリストを身にまといなさい」、と。すでにいただいた恵みの大きさを振り返り、差し出される課題の大きさにひるむことなく、主の言葉に支えられ、希望をもって歩んでゆきましょう。
 3年前の11月、フランシスコ教皇が来日されました。長崎、広島、東京と、駆け足のように訪れ、多くの人々と親しく接し、深い印象と励ましの言葉を残して行かれました。その恵みの時のこと思いおこし、感謝のうちに、新たな希望をもって待降節を過ごすことができますよう祈りましょう。(S.T)

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

1 comment

  1. 分かち合いの、すべての現実を踏まえた上での力強い言葉に慰め励まされた。

    今、まだ朝4時半で布団の中だがスマホと祈る花のお陰でイエス・キリスト依存症がより徹底されてきた。
    実は昨日も布団の中でイエズス会士の葬儀ミサを見たり、オバマが現職時代にパパ様と会っている映像を見て、
    当然だが、パパ様ですら確実に歳を取られていることを思い、、、。
    実は私は時を止めようとあがいていたことに気づいた。愚かなことだ。

    今日から新しい典礼だ。全く抵抗がないと言えば嘘だが、確実に言えることは典礼も、聖書ですらも、(真実と霊に従い)あくまでその時代時代の人間が構成してきたものである。まあ、パパ様は神様ではなく人間だ、ということと同じだ。
    (毎度、不遜な言い方かもしれないが)
    人間に対しては寛容であることが一番で、それもちょっとした寛容では逆効果で、この世のすべてを突き抜けた寛容でないと無意味だ。
    ぁ、それってイエス・キリスト!

    昨夜、一人実家で1つの灯りだけつけていると地元小教区の婦人が、ミサの時間が変更になったと言ってミカンを届けてくれた。(実は、その婦人とはいつもケンカをしている。わが不寛容の証人である。)

    スマホ持ちながら気づけば朝食と風呂の準備がほぼ完了。依存症なのか何なのか不明だが、終わりよければすべてよし!
    アルファでありオメガであるイエス・キリスト万歳!

    わたしにすがりつくのはよしなさい
    と主イエスは言われた。
    これからも霊に導かれつつ、聖霊に従い、イエス・キリストの再臨とイエスの仲間(わたしに敵対しない者は仲間と主は言われた)との再会を胸に生きていきたい。

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