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教皇の意向:女性の役割 (4月)

年間第三十一木曜日(11/3)

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一人の罪人が悔い改めれば、

ルカ15:10
集会祈願

🌸 第一朗読 (フィリピ3:3-8a)

使徒パウロのフィリピへの手紙
 3〔皆さん、〕わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。 4とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。 5わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 6熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。 7しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 8そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。

🌸 答唱詩編 詩編105 典94 ②③

アレルヤ唱 典276(諸聖人)

🌸 福音朗読 (ルカ15:1-10)

ルカによる福音
 1〔そのとき、〕徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを話された。 4「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 7言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
 8「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 9そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 10言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 今年の待降節から、ミサの式次第の言葉が一部改訂される。
 一つの目立つ点は、「あわれみ」に代わって、「いつくしみ」が使われる点。「主よ、あわれみたまえ」、にかわって、「主よ、いつくしみを」と唱える。多少違和感を感じる人もいるだろうが、根本的な変更ではない。いずれも、神の大いなる愛を表すものだが、前者は人間のみじめな状態に、後者は、神の限りない愛に重点が置かれると言ってよいだろうか。
  イエスが語る、神の愛についてのたとえにも、似たようなことが言える。ルカが記すたとえは、「見失った羊」のたとえと言われ、同じ内容を記すマタイ(18.12∼14)では「迷い出た羊」のたとえとされている。「見失った」なら、「見失った」主人に重点があるが、「迷い出た」なら、「迷い出た」羊に責任がある、ととれる。英語でも、lost sheep とstray sheep と訳される。確か、夏目漱石の『三四郎』にはstray sheep の話が出ていた。イザヤ預言書でも、「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(53.6)とある。
 神は、そうした自分の責任で迷った者も、ご自分が見失った者として、探し出しに行かれる。神の世界では、「自己責任」という言葉があまり意味を持たない。ファリサイ派の人々や律法の専門家(わたしたちも、そのひとりかもしれない)は、そうした神の心がわからないから、だれにでも近づこうとするイエスの広い愛も理解できないのだろう。
 わたしたちも、少しでも、そうした、あわれな状態にある者に向けられる神のいつくしみの心に少しでも近づくことができるよう祈ろう。(S.T.)

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

1 comments

  1. 11月の教皇による祈りの意向の子どもたちを見ると、このような子どもたちを放置している当事国や先進国?日本自体がstray sheepではないか、と思う。
    日本はこれほど経済的に豊かでも、あるいはそれ故か、さまよっている。神を求めることを忘れてしまったのか。この世の富を相変わらず求めている以上、さまようだろう。否、さまよっているうちが華かもしれない。

    今日は、以前家庭教師をしていた家に行ったら留守で、少し車を飛ばして最近だれも教会に来なくなった家を久しぶりに訪ねた。子どもたちは大きくなって何人かは家を出たが貧しさは変わってない様子。周囲のジェントリフィケーションが進み、その分、貧しいことを責められている感じ。
    私自身が家族親戚地域の問題に足をすくわれ定期的に訪問してなかったことを悔やむ。
    貧しきその家を訪ねなかった間、自分の日本社会への理解も不十分となった。探し受容すべき者を見失っていた自分がstray sheepだった。

    母が拉致されただけではなく、財産も奪われたことにより、かえって、ギリギリの生活でも食えて家があって、どん底ゆえの、世の不正に対する直言直行の自由を行使している幸福を感じる。とはいえ、日本にいること自体が、生ぬるい「偽善の体系」(加藤周一『続 羊の歌』97頁)に浴していて気持ちが悪い。ようやく正常な感覚になった。すべての道はローマに通じる。ローマ教皇フランシスコ!と、今日みやげに冷凍お好み焼きをくれたシングルマザーやその初孫フランシスコ!の家族のお陰だ。

    第一朗読でパウロが言う、主イエス・キリストを知るとは、今、具体的にどうすることか。
    神の御旨は?
    私自身がstray sheepだ。
    しかし、はっきりしている。主イエス・キリスト!私はあなたを求めている。

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