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教皇の意向:女性の役割 (4月)

年間第二十三主日(9/4)

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神の計画を知りうる者がいるでしょうか

知恵9:13
集会祈願

🌸 第一朗読 (知恵9:13-18)

13神の計画を知りうる者がいるでしょうか。
主の御旨を悟りうる者がいるでしょうか。
14死すべき人間の考えは浅はかで、
わたしたちの思いは不確かです。
15朽ちるべき体は魂の重荷となり、
地上の幕屋が、悩む心を圧迫します。
16地上のことでさえかろうじて推し量り、
手中にあることさえ見いだすのに苦労するなら、
まして天上のことをだれが探り出せましょう。
17あなたが知恵をお与えにならなかったなら、
天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、
だれが御旨を知ることができたでしょうか。
18こうして地に住む人間の道はまっすぐにされ、
人はあなたの望まれることを学ぶようになり、
知恵によって救われたのです。」

🌸 答唱詩編 詩編90 典52 ②③④

🌸 第二朗読 (フィレモン9b-10、12-17)

使徒パウロのフィレモンへの手紙

  9〔愛する者よ、〕年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。 10監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。 
 12わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。 13本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、 14あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。 15恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。 16その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。
 17だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。

アレルヤ唱 典270 23C

🌸 福音朗読 (ルカ14:25-33)

ルカによる福音
 25〔そのとき、〕大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。 26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 29そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、 30『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。 31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。 32もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。33だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 9月に入って、学校も幼稚園も始まり、子どもたちの元気な声が戻ってきました。しかし、わたしたちの生きている世界は、相変わらず、そして、以前よりも、多くの難しい問題にあふれていることも事実です。コロナの感染は一向に収まらず、ウクライナでの戦争を終結の兆しが見えません。国内政治もとても落ち着いているとは言えません。さらに、集中豪雨に加え、台風も接近しています。

 そんな状況の中で、あえて、ルーティンのように教会に集まり、み言葉に耳を傾け、共に祈り、聖体をいただき、まるで何事もなかったかのように家路につくのはなぜでしょうか。この問題だらけの世界、そして、人間が住みかとしている地球そのものも、地球温暖化の問題や、異常気象の発生、そして、いつ起きてもおかしくない巨大地震が象徴するように、とても安心できる状態にあるとは言えません。だからこそ、今日の日は、「被造物を大切にする世界祈願日」にさだめられているのです。そんな変転極まりない現実の中で不安を抱きながら、わたしたちは皆、どこかで変わらないもの、頼りになるものを求めています。いわば、荒れ狂う海の中で、方角を示す羅針盤、変わらない北を指す指標を探し求めているかのようです。便利な車のナビさえも働かない、そんな行き先の見えない旅路を照らす光を求めているのです。
今日のみ言葉は、そんなわたしたちに何を語っているのでしょうか。第一朗読の『知恵の書』は、そんなわたしたちの不安と恐れの対極をなす、確かな方、誤ることのない方がおられ、人間に知恵と霊を送ってくださると語ります。「死すべき人間の考えは浅はかで、朽ちるべき体は魂の重荷となり、地上の幕屋が、悩む心を圧迫します。・・・あなたが知恵をお与えにならなかったなら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、だれがみ旨を知ることができたでしょうか」と。旧約の知恵は、愚かで悩みに満ちた存在、限界に包まれた人間に、大いなる存在、変わらない存在そのものである神が、自らを現わし、かかわってくださると教えます。

 そして、福音は、神から遣わされた主イエスこそが、神のみ旨、神の望みを告げる真の知恵と霊を授ける方であると告げます。イエスが示す神のみ旨、神の望みは、人間の知恵の教えとは異なります。真の知恵を得ようとするもの、真の道を歩もうとするものにイエスは言われます、「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、さらに、自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来るものでなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と。人間にとって、一番頼りになると思っている家族、さらには自分自身の命でさえ、憎む(=手放す、放棄する、捨てる)のでなければ、そして、自分が最も避けたいと思う十字架を担ってついて来なければ、イエスの弟子ではありえない、と。さらに言われます、「自分の持ち物を一切捨てないならば、誰一人として私の弟子ではありえない」と。はたして、一体、だれがそのような道をあえて選ぶでしょうか。

 しかし、教会の歴史を振り返ると、文字通り、そのような道を歩んだ人たちがおられます。初期のキリスト者、まだキリスト教が公認されず、迫害が広がっていた時代イエスに心底従おうと思った人は、すべてを投げ打って、殉教の道に進むことをためらいませんでした。そして、迫害が終わり、平和が訪れたとき、真剣にイエスに従おうと思った人々は、ぬるま湯のような街中を離れ、孤独な独居生活を送って祈りにまい進したり、共同生活をしながら祈りと労働に励む修道生活を始めた人々もいました。そして、時代が進んで修道生活の中にも様々な問題が生じたとき、街中に戻り、貧しさの中で、福音を宣べ伝える新しい道を切り開いた人もいました。
そして、時代の要請に応え、より広い社会の中で、様々な活動を通して福音の喜びと希望を人々に証ししようとする動きは、今も絶えることはありません。

 人間誰もが持っている執着を捨て、これこそが自分ものと思っているものをすべてかなぐり捨てて、主イエスに倣って生き続けようとすることは、だれにでも開かれた道です。そして、このイエスに従って生きることこそが、不安や闇に道を迷う人々に真の光を照らし続ける道なのです。今日も、こうした神の家に集う恵みをいただいてわたしたちが、主の招きに応え、主の示される道を勇気をもって歩きだす恵みを祈りましょう。(S.T.)

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

1 comments

  1. 分かち合いの中で、ルーティンと言われてることが真実ならば、これは至福の生活である。
    全く、良い意味で、おそるべきことだ。天の国の生活を先取りしている。
    ミサこそが世界内的生活の基盤であることを示している。
    まるで何事もなかったかのように家路につく、とは神の圧倒的な癒やし・ゆるしを言っているように聴こえる。
    日々ミサを捧げる司祭の側にいること。神の庭で遊ぶことの大切さを想う。

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