わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする
エゼキエル34:11
集会祈願
全能永遠の神よ、御子キリストによって造られたすべてのものは、再び、王であるキリストのうちに集められ、完成されます。主の言葉に希望をおき、主を待ち望むわたしたちが、世の終わりまで朽ちることのない愛に生きることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
???? 第一朗読 (エゼキエル34.11-12,15-17)
11まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。 12牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。15わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。 16わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。17お前たち、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。 1
???? 答唱詩編 詩編23 典123 ①③④
答 主はわれらの牧者、
わたしは乏しいことがない。
神はわたしを緑のまきばに伏させ、
いこいの水辺に伴われる。
神はわたしを生き返らせ、
いつくしみによって
正しい道に導かれる。 【答】
あなたははむかう者の前で、
わたしのために会食を整え、
わたしの頭に油を注ぎ、
わたしの杯を満たされる。 【答】
神の恵みといつくしみに
生涯伴われ、
わたしはとこしえに
神の家に生きる 【答】
???? 第二朗読 (一コリント15.20-26,28)
20〔みなさん、〕キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。 21死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。 22つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。 23ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、 24次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。 25キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。 26最後の敵として、死が滅ぼされます。28すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。
アレルヤ唱 典266 王であるキリスト
アレルヤ、アレルヤ。主の名によって来られるかたに賛美。わたしたちの父、ダビドの国に祝福がありますように。アレルヤ、アレルヤ。
???? 福音朗読 (マタイ25.31-46)
マタイによる福音
31〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 32そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 33羊を右に、山羊を左に置く。 34そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 39いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』41それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。 42お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 43旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』 44すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』 45そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 46こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
奉納祈願
あわれみ深い父よ、あなたはひとり子イエスの死と復活によって、万物を和解させてくださいました。この救いの恵みを祝って主の食卓を囲むわたしたちの心に、一致の喜びをあふれさせてください。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
拝領祈願
恵み豊かな神よ、永遠のいのちの糧に強められて祈ります。天地万物の王であるキリストに従うわたしたちが、あなたの国で尽きることのない喜びを受けることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

???? 分かち合い
待降節を来週に控えた典礼暦の最後の主日、教会は王であるキリストの祭日を祝います。王様や王国がわずかになってしまった現代、教会が、キリストを王として祝うことは時代錯誤ではないかと思う方もおられるでしょう。実際、この祝日が制定されたのは、王制華やかな中世や近世のことでなく、まさに20世紀初頭、1925年、ピオ11世のときであることを、どれだけの方がごぞんじでしょうか。絶対王政が過去のものとなり、その代わり、世俗主義や無神論が広がる、そうした時代に、あえて教会は、キリストが真の王であることを世界に宣言するため、この祝日を制定されたのです。
旧約時代の昔、まだイエスラエルの民が約束の地に入って間もない頃、人々は、周囲の民族に立ち向かうために強い王をたてることを、預言者サムエルに求めます。サムエルは、王を抱くことがどれほど民衆の負担になるかを語り、考え直すよう求めますが、民は執拗に王を求め、サムエルも不承不承、王を立てることを承認します。以後、イエスラエルの歴代の王のもとで、神の民がどれほどの栄光と悲惨を経験したか、旧約聖書をお読みになれば、ただちに明らかになります。そして、時代が下って、イエスがこの世に来られたとき、あのパンの奇跡の後、人々がイエスを王にしようと考え始めたことを察知したイエスは、ひそかに姿を隠されたことをヨハネは記しています。
それにもかかわらず、教会がキリストを王としてあがめるのはなぜでしょうか。王であるキリストの祭日に教会が朗読個所として選んだ福音を読めば、おわかりになるでしょう。ルカやマルコが描く王であるキリストは、人々の歓迎の中、あの力の象徴である馬の代わりに、柔和なろばにのってエルサレムに入城されるメシアではなく、むしろ、苦しみを受け、十字架につけられ、まさにこの世を去ろうとしておられる痛ましいメシアの姿です。ヨハネが示す王であるキリストは、裁きの座からローマ総督の前に引き出され、処刑する権限をもつピラトとのやり取りの中で、「お前はユダヤ人の王か」と問われたとき、「わたしの国はこの世には属していない」と答える、屠り場に引かれて行くいけにえの羊のような存在です。そして、今日読まれたマタイ福音書では、王は、裁き主というより、エゼキエル預言者が描いて見せた、もっぱら羊の世話だけを心にかける真の羊飼いの姿をほうふつとさせるものです。
エゼキエルは、主ご自身である牧者について、「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う」と記します。預言者は、歴代の王がなしえなかった牧者の務めを牧者である神自ら行われると説きます。そして、マタイ福音書は、終わりの日に、わたしたちを裁く牧者である方が、何と牧者の世話を必要とする羊である、わたしたち一人一人に同一化される、あの柔和で謙遜な方であるという神秘を明かしてくれます。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べものを差し上げ、のどの渇いておられるのを見て飲み物をさしあげたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を課し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」と。それに対して答えが「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」とマタイは記します。
これこそが、わたしたちが王としてたたえるキリストの真実です。人々が考える、権力を振るう支配者には似ても似つかない、仕えるものとしての王の現実です。そして、イエスは、ご自身がそのように生きられたばかりでなく、イエスに従うもの皆が、その範に倣い、同じような生き方をすることを望んでおられます。まずは、この驚くべきへりくだりに感謝いたしましょう。そして、この牧者であり、それを通して、王となられた、イエスに倣うことによって、主を証しすることができるよう祈りましょう。
かつて、キリシタン時代に、多くの武将たちがキリスト教に近づき、一度は教会の擁護者となったきっかけの一つは、福者高山右近の、イエスの教えを文字通り生きて見せたことにあると言われます。兄弟一人一人の中に、キリストを見、お仕えする心が、困難な時代を生きるわたしたちにも与えられますように、共にお祈りいたしましょう。(S.T.)