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教皇の意向:修道士・修道女と神学生の養成 (5月)

年間第第三水曜日(1/24)

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主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。

2テモテ4:17b

聖フランシスコ・サレジオ司教教会博士(記)

集会祈願

🌸 第一朗読 (サムエル下7・4-17)

 4その夜、ナタンに臨んだ主の言葉は次のとおりであった。
 5「わたしの僕ダビデのもとに行って告げよ。主はこう言われる。あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。 6わたしはイスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕、すなわち幕屋を住みかとして歩んできた。 7わたしはイスラエルの子らと常に共に歩んできたが、その間、わたしの民イスラエルを牧するようにと命じたイスラエルの部族の一つにでも、なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか。
 8わたしの僕ダビデに告げよ。万軍の主はこう言われる。わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした。 9あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう。 10わたしの民イスラエルには一つの所を定め、彼らをそこに植え付ける。民はそこに住み着いて、もはや、おののくことはなく、昔のように不正を行う者に圧迫されることもない。 11わたしの民イスラエルの上に士師を立てたころからの敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。 12あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。 13この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。 14わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。 15わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない。 16あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」
 17ナタンはこれらの言葉をすべてそのまま、この幻のとおりにダビデに告げた。

🌸 答唱詩編 詩編 典

アレルヤ唱 典

🌸 福音朗読 (マルコ4・1-20)

 1イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。 2イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。 3「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 4蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 5ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 6しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 7ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。 8また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」 9そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

 10イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。 11そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。 12それは、
 『彼らが見るには見るが、認めず、
 聞くには聞くが、理解できず、
 こうして、立ち帰って赦されることがない』
 ようになるためである。」

 13また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。 14種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。 15道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。 16石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、 17自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。 18また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、 19この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。 20良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」

奉納祈願

拝領祈願

🌸 分かち合い

今日、私たちはイエスが海辺で教えられたのを見た。 群衆があまりに多かったので、イエスは弟子たちの舟の一つを使って、そこから説教をしなければならなかった。 一般的に、イエスは海の近くで群衆に教えるが、弟子たちに教えるときは、山や人里離れた場所に行く傾向がある。

マルコの福音書で初めて、イエスが話された多くのたとえ話に出会う。 今日の箇所に出てくるたとえ話を論じる前に、たとえ話一般について少し述べておこう。  新約聖書では、「たとえ」という言葉はさまざまな文学的形式を表します。 しかし、一般的には、たとえ話とは、日常生活からの例示を通してイエスの教えの要点を説明する方法であると言える。 時には、たとえ話のポイントをより際立たせるために、誇張された要素が含まれることもある。

厳密に言えば、たとえ話と寓話の違いは、前者が比較として一つのポイントを示すだけであるのに対し、後者では、物語に登場する各項目がそれ自体の象徴性を持っていることである。 一般的に言って、イエスのたとえ話は前者の類であったが、寓話を常に排除することはできない。 今日の種まきのたとえは、厳密な意味ではたとえ話だが、イエスが弟子たちにそのたとえ話を説明するときには、より寓話のように見えるように作られていることがわかるだろう。 とはいえ、これは議論するポイントではない。

ここで紹介されている種まきのたとえは、3つの部分に分かれている。 最初の部分は、イエスが実際に言われたことに近いようで、他のたとえ話と同じように、ただ一つの点を述べている。 そのポイントとは、神の蒔かれた種は、御国を建設し、御国の支配をこの世に実効あるものとするための神の計画を表しているということである。部分的あるいは全面的に失敗に終わるように見える部分もあるかもしれないが、全体としては必ず成功する。 神の計画が挫折することはない。

このたとえは、特に困難と迫害の時代にある(マルコの教会が経験していたであろう)小さな教会にとって、確信を誘うたとえである。

たとえ話は、呼びかけで締めくくられている:

聞く耳があるなら、聞きなさい!

聞く耳があるなら、聞きなさい!聞くことは、神やイエスとの関係において非常に重要な要素である。 福音書では、「聞く」ことは次のようなことを意味する:

メッセージを実際に聞くこと、

メッセージを理解すること、

メッセージを自分の考えに取り入れること……。

私たちが第三段階に到達すれば、必然的に第四段階、そして最終段階がやってくる:

メッセージに基づいて行動すること。

ひとたび人生の見方が私たちの一部となれば、それに従って行動したくなる。 無理に行動する必要はなくなる。 これこそが、キリストとその道と一体となることで得られる自由なのだ。

次の箇所は奇妙に思えるかもしれない。 イエスがたとえ話をしたのは、自分の周り以外の人には理解できないようにするためだと言っているようだ。 それは本当に意味をなさない。 イエスのメッセージはすべての人のためのものではなかったのだろうか? 実際、イエスはヘブライ語(旧約聖書)から、見続けても決して見ようとせず、聞き続けても決して聞こうとしない人々についての、かなり皮肉な一節を引用している。 なぜか?なぜなら、もし彼らが見て理解すれば、改心して変わるかもしれないが、彼らは改心しようとも変わろうともしないからだ。 彼らはすでに心を決めているのだ。 私たちは今日、確かにそのような人々に出会っている。

実際、たとえ話は、日常生活の身近な場面の生々しいイメージを用いて、人々にイエスのメッセージを理解させるためにこそ語られたのである。 しかし、これまで見てきたように、明白なことさえ見たくない人々がいたのである。

最後に、弟子たちが説明を求めたことに対する、たとえ話の別の解釈がある。 その説明では、たとえ話自体の強調点がいくらか変わり、たとえ話というより寓話になっている。 元のたとえでは、種を蒔く人、すなわち神とその仕事の最終的な成功に重点が置かれていた。

この別の解釈では、種が成長しようとする土壌に重点が置かれている。神の言葉(種)に対するさまざまな反応が描かれている。 当時のパレスチナでは、種まきは耕す前に行われていたことをまず認識しなければならない。 そして、前回の収穫以来休耕している岩だらけの畑を思い浮かべる必要がある。 公道が横切っている。 部分的に雑草やワラビが生えている。  ここに農夫が種を撒く。

不毛の道に落ちた種もある。 それは歓迎されることもなく、成長し始めることすらない。 鳥がやってきて食べ尽くしてしまう。 これは、イエスのメッセージに接したものの、彼らの人生において、そのメッセージがスタートすることさえない人々のことを指している。

ある種は岩の上に落ち、その隙間には水分があるかもしれない。 種は成長し始めるが、すぐに水分と栄養がなくなり、枯れて死んでしまう。 この土壌は、キリスト教を熱狂的に受け入れるが、ひとたび反対や迫害(初代教会では一般的であったであろう)に会うと、離れていく人々に例えられる。

ある者は雑草や茨の中に落ちていく。 種は根を張るが、雑草も生い茂り、やがて麦を摘み取ってしまう。 これは、周囲の社会に蔓延する(物質主義的な)価値観に巻き込まれ、何も生み出さずに終わるクリスチャンの姿である。

最後に、肥沃な土壌に落ちて、量の差こそあれ、良い収穫をもたらす種がある。 これらは、本当にみことばを聞き(上記参照)、多くの実を結ぶクリスチャンである。

クリスチャンであるためには、ただ熱心であること、観察していることだけでは十分ではなく、実を結ばなければならない:

…良い木はみな、良い実を結び…良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれます。

(マタイ7:17,19)。

私たちは今日、上記のカテゴリのどれが私たちを最もよく表しているかを考えてみよう。

LivingSpaceより

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
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