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教皇の意向:女性の役割 (4月)

復活節第六主日A(5/14)

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わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない

ヨハネ14:18
集会祈願

慈しみ深い神よ、主イエスは最後の晩餐の席で弟子たちに「あなた方をみなしごにはしない」と約束してくださいました。どのような時も助け主である聖霊に支えられ、キリストとともに生きる恵みを、私たちに与えてください。聖霊による一致のうちに、あなたとともに神であり、世々とこしえに生き、治められる御子、私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。

🌸 第一朗読 (使徒8:5-8、14-17)

使徒たちの宣教

 〔そのころ、〕5 フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。6 群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。7 実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。8 町の人々は大変喜んだ。
 14 エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。15 二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。16 人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。17 ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

🌸 答唱詩編 詩編66 典130①②④

答:主をたたえよう。
主は慈しみ深く、その憐れみは永遠。

すべての人よ、神に向かって喜びの声をあげよ。
神の栄えを褒め歌い、その栄光を賛美せよ。
「すべての人はあなたを伏し拝み、
み名をたたえて喜び歌う。」 【答】

神のわざを仰ぎ見よ、
人々に行われた恐るべきわざを。
神は私たちに命を与え、
足をゆるぎなく支えられる。 【答】

神を恐れる者は耳を傾けよ。
神のわざを語ろう、
わたしの上に行われたことを。
わたしは神の名を呼び求め、
賛美の歌が口にあふれる。 【答】

🌸 第二朗読 (1ペトロ3:15-18)

 〔愛する皆さん、〕15 心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。16 それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。17 神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。18 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。

アレルヤ唱 典264(第六主日)

アレルヤ、アレルヤ。わたしを愛する人は私の言葉を守る。私の父はその人を愛し、私たちはその人のもとに行く。アレルヤ、アレルヤ。

🌸 福音朗読 (ヨハネ14:15-21)

ヨハネによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

奉納祈願

恵み深い父よ、独り子イエスは、すべての人の友となられ、ご自分の命まで差し出す愛を示してくださいました、この秘跡を通して私たちがキリストの心に結ばれますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。

拝領祈願

全能の神よ、永遠の命の糧に強められて祈ります。私たちの内におられるキリストに支えられ、日々、愛と喜びをもって生きることができますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない(ヨハネ14:18)。

 主イエスの公的宣教の終わり頃、サマリアの人々は、主イエスとその弟子たちがエルサレムに向かっていたため、自分たちの町を通過することを許しませんでした。私たちも、このサマリア人たちのように、偏見から自分とは違う人を受け入れなかったり、神の存在を認めなかったりすることが少なくありません。使徒ヨハネは、サマリア人が主イエスを受け入れなかったことを聞いて、憤慨しました。彼は主イエスに、天から火を下して彼らを滅ぼす許可を求めました(ルカ9:52-54参照)。主イエスはそれを拒否し、その場でヨハネを叱責されました(ルカ9:55)。

 しかし、主イエスは結局、ヨハネがサマリアの人々に天から火を降ろすことを許されました。助祭フィリポは、不信心なサマリア人に福音を力強く伝え、彼らは神のみ言葉を受け取りました(使徒8:5ff)。「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。」(使徒8:14、15)。すると、神の火である聖霊が彼らの上に降り注ぎ、神の愛で彼らを焼き尽くしました(使徒8:17参照)。主イエスはヨハネの願いを聞き入れてくださいましたが、ヨハネが期待したような形ではありませんでした。もしかしたら、ヨハネはサマリア人よりも大きな回心を受けなければならなかったかもしれません。

 サマリアの人々のように奇跡的な癒しを目撃すること、あるいはサマリアの人々の何人かのように自分で癒しを受けることは、明らかに驚くべきことです。しかし、聖霊が彼らの内に宿られるように、私たちの内に宿られるとき、傷ついた記憶に癒しをもたらし、生涯続く罪や罪悪感、恥のパターンから解放してくださいます。聖霊の働きは素晴らしいです。

 私たちは、神が地上から取り除いてくれても構わないと思っている人はいませんか。いずれ主イエスは、私たちを代理人として、これらの人々を聖霊による新しい生命に導くと想像できませんか。もし私たちが「敵」を愛するなら、ヨハネが経験したような、腹の底から痛くなるような改心が必要です。悔い改めなさい!敵を赦し、愛しなさい(ルカ6:35)。「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20:22)。これらの呼びかけはいつまでも必要があると思います。

 私たちは今聖霊降臨の祭日をお待ちしています。聖霊降臨の日に使徒たちを一変させたように、聖霊はサマリアの人々と私たちを一変させてくださいました。しかし、普遍の教会の中で、この教会の中で、私たちの家族の中で、自分自身の生活の中で、どのぐらい聖霊の働きを感じたでしょうか。あるいは聖霊のたまものをよく認めていたでしょうか。何回も聖霊のたまものに気付かなかったことがあるでしょう。私たち自身の中にはまだ妬みや批判、文句、憎みなどがあったからです。そう言っても、他の人を赦し合うことができないわけではありません。自分を傷つけた人を赦し合って、その人を受け入れるならば、聖霊のたまものをもっと豊かに楽観的に感じることができるではないかと思います。

 ところが自分でいくら頑張っても、受け入れることができない、赦し合うことができないと思ったら、次のようなみ言葉を覚えておきましょう。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(ヨハネ14:16.18)。

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

2 comments

  1. そして、遠藤周作『王妃 マリー・アントワネット』を思う。
    中学生の時、週刊朝日に連載されていた。
    同じ頃、池田理代子『ベルサイユのばら』のアニメーションがテレビでも放映されていた。

    後者については、場末の酒場で近衛隊長とロベスピエールが対決する場面が(そこで近衛隊長はルソーの哲学と出会う)、
    前者については、遠藤周作が王妃マリー・アントワネットだけでなく、王妃と同年のやがて娼婦になる少女をも描いていたことが、記憶に残っている。

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  2. 母の日に
    母とは電話できないが
    母を思いて
    再会を祝う

    懺悔は語られざる哲学である。
    それは 争い たかぶる心のことではなくして 和らぎ へりくだる心のことである。
          三木清

    小林多喜二については、桑原武夫『一日一言』(岩波新書)参照

            

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