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教皇の意向:修道士・修道女と神学生の養成 (5月)

年間第十一水曜日(6/15)

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見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい

マタイ6:1
集会祈願

🌸 第一朗読 (列王記下2:1、6-14)

 1主が嵐を起こしてエリヤを天に上げられたときのことである。エリヤはエリシャを連れてギルガルを出た。
 〔二人がエリコに来た時、〕 6エリヤはエリシャに、「主はわたしをヨルダンへお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言った。しかしエリシャは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えたので、彼らは二人で出かけて行った。 7預言者の仲間五十人もついて行った。彼らは、ヨルダンのほとりに立ち止まったエリヤとエリシャを前にして、遠く離れて立ち止まった。 8エリヤが外套を脱いで丸め、それで水を打つと、水が左右に分かれたので、彼ら二人は乾いた土の上を渡って行った。 9渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい。」エリシャは、「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」と言った。 10エリヤは言った。「あなたはむずかしい願いをする。わたしがあなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる。もし見なければ、願いはかなえられない。」 11彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。 12エリシャはこれを見て、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と叫んだが、もうエリヤは見えなかった。エリシャは自分の衣をつかんで二つに引き裂いた。 13エリヤの着ていた外套が落ちて来たので、彼はそれを拾い、ヨルダンの岸辺に引き返して立ち、 14落ちて来たエリヤの外套を取って、それで水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられますか」と言った。エリシャが水を打つと、水は左右に分かれ、彼は渡ることができた。

🌸 答唱詩編 詩編31 典66⑤⑥

アレルヤ唱 典270(31B)

🌸 福音朗読 (マタイ6:1-6、16-18)

マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
 2だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。 3施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。 4あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
 5「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 6だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
 16「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 17あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。 18それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 「偽善者のようであってはならない」、とイエスは言われる。「偽善者」という言葉は、もともと、悪い意味ではなく、役者、俳優、演じる人のこと。そこから、「ふりをする」など、心の伴わない行動にも使われるようになったようだ。
 役者は、何らかの演技を通して、客を喜ばせることを仕事とする。演技を通して、人が喜んでくれれば、それにまさる喜びはない。演技に限らず、人間は、自分の行いが他人に認められ、ほめられると嬉しいもの。子どもに限らず、大人も同様。相手が喜び、ほめられることは、人間の成長にとって、さらには、人間関係を円滑に保つために大切なもの。
 ただ、ほめられること、賞賛を得ることが行動の目的になってしまうと、少々問題である。ほめられることを目的とする仕事は別として、多くの仕事は人々の賞賛を目的とはしない。しかし、人間、気を付けないと、つい、人の賞賛を受けることを目的として行動し、生きるようになってしまう。
 今日のテーマである「施し」、「祈り」、「断食」。いずれも律法に定められた義務ではないが、ユダヤ人が大切にしてきたもの。それらは本来、人からの賞賛を得るためのものでなく、むしろ、神に向かって行うこと、神を喜ばせるために行うこと。それを、人に見せるために行うとなると、それは神を喜ばせることにならず、偽善となる。
 人間は、他の人間の賞賛を得ることがなくても、隠れたことを見ておられる神からの賞賛、報いを受けることができる。それこそが、人間にとって、より大きな、深い、永続的な喜びであることをイエスは教えておられるのではないか。(S.T.)

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
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