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教皇の意向:女性の役割 (4月)

四旬節第三主日(3/12)

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水を飲ませてください。

ヨハネ4:7
集会祈願

🌸 第一朗読 (出エジプト17:3-7)

出エジプト記
3民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。
「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」
4モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、 5主はモーセに言われた。
「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。 6見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」
モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。 7彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。

🌸 答唱詩編 詩編 典

🌸 第二朗読 (ローマ5:1-2、5-8)

 1このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 2このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
 5希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。 6実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。 7正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。 8しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

アレルヤ唱 典

🌸 福音朗読 (ヨハネ4:5-42)

ヨハネによる福音
 5それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。 6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
 7サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。 8弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。 9すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。 10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 11女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。 12あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」 13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 14しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 15女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
 16イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、 17女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。 18あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」 19女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。 20わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 21イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 22あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。 23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 25女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」 26イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
 27ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。 28女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。 29「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」 30人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
 31その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、 32イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。 33弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。 34イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。 35あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、 36刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。 37そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。 38あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
 39さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。 40そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。 41そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。 42彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 昨日(3月11日)は、東日本大震災から12年目の日だった。被災地から数百キロ離れた東京にいた自分も、それまで経験したことのない長く大きな揺れに、しばらく体が固まって動けなくなったことを思い出す。電気の消えた薄暗い幹線道路を黙々と最寄りの駅に向かって歩く人々の姿が今も目に焼き付いている。その後、東北では、大津波のために三陸沿岸の町がことごとく波に飲み込まれ、逃げ遅れた人、避難したにも関わらず、予想を上回る巨大な波に無数の方々が沈んだことを知ったのはだいぶ時間がたってからだった。
 避難して生きながらえた人々がまず第一に必要としたのは、飲み水と食糧の確保、そして、まだ、雪の降る寒さの中で少しでも暖をとることだったのではないか。今、こうした大きな災害を免れ、平穏な生活を送れることを感謝しながら、いつ訪れるとも知れない、自然災害に対する備えを怠らないよう、気を引き締めよう。
 今日の典礼のみ言葉は、わたしたち人間が生きるために欠かすことのできない「水」をテーマとしている。文字通り水のない砂漠で、指導者モーセに不平を言い始めたイスラエルの人々に、主が、不思議な方法で水を与えられたことを、出エジプト記から聞いた。また、福音では、旅につかれ、井戸の近くでしばしの憩いと水を所望した主イエスとサマリアの女との間で交わされた対話について聞いた。現代の都会生活をするわたしたちのように、望むときに簡単に水が手に入るのと違って、井戸のあるところまで足を運ばなければならなかった昔の人々、また、現代でも、水を得るために急な坂道を登り降りしなければならない山間部に住む人々の苦労も思い出そう。
 人となって、わたしたちの間で生きられた神の子イエスも、渇きを癒す水を求めて、「ヤコブの井戸」まで来られたことを想像の目で見よう。主イエスは、当たり前のように、そこに水を汲みに来た一人の女性に声をかける、「水を飲ませてください」と。人々が出歩こうとしない昼日中に水汲みに来るには、それなりの理由があったことは、福音の後の言葉からわかる。
 主は、自らの渇きのことをすっかり忘れてしまわれたかのように、井戸の水ではない、いのちの水への渇きへと話題を移される。「もし、『水を飲ませてください』、と言ったのがだれであるか知っていたならば、その人はあなたに生きた水を与えたであろう」と。女性は思いもかけない人との出会いによって、考えもしなかった「生きた水」のことを知るようになる。しかし、すぐその意味がわかったわけではない。ただ、水汲みの手間をはぶく、都合のよい水が得られる道を教えられたと思ったのだろう。しかし、イエスは言う、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と。彼女は、イエスとの対話を通して、少しずつ、思いもしなかった世界に、そして、メシアの世界へと導かれる。サマリア人の神殿がある山でもなく、ユダヤ人の神殿のあるエルサレムでもないところで、人々が主を礼拝する時が来ること、そして、すでに来ていることを教えられる。
 美しい話。しかし、なぜ、わたしたちを含め、人々は、長らえるため、その日の命を保つための水を得るために必死な努力をしながら、「生きた水」、あえて水汲みの努力をせずに、いただくことのできる「真のいのちの水」に対する渇きを感じないのだろうか。サマリアの女のように、そのような渇きがあることさえ気づかずに生きているのだろうか。あまりに多くのものに囲まれ、心を奪われ、満ち足りた生活を送っているという錯覚の中で日々を過ごしているからだろうか。
 サマリアの女が偶々主イエスに出会う恵みを受けたように、渇きの存在に気づかせ、導いてくれる存在がなければ、わたしたちは日々の糧を得、のどの渇きを満たす水を手に入れることで人生を終えてしまうかもしれない。その渇きを感じさせてくださるのは、実は、神ご自身だ。そして、それに気づかせてくれる親、先輩、友人、司祭、修道者に感謝しよう。そして、わたしたち信仰者一人一人も、人々をそうした渇きに気づかせる存在となる使命をいただいていることを肝に銘じよう。説教するのでなく、洗脳するのでなく、それとなく、自分のさりげない言動を通して、人々がその渇きに気づくような生き方をしよう。そのためにも、日々、真のいのちへの渇きを深めることができるよう、自らの心を主にあげ、主とともにある一時を大切にしよう。(S.T.)

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
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