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教皇の意向:女性の役割 (4月)

年間第二十九主日(B)(10/17)

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人の子は仕えるために、また、命を献げるために来た

マルコ10:45
集会祈願

恵み豊かな神よ、ひとり子イエスは、すべての人の救いのために自らのいのちをおささげになりました。わたしたちが苦しみや試練の中にあっても、主の十字架のうちの希望を見出すことができまように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。

🌸 第一朗読 (イザヤ53.10-11)

10病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。
11彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。

🌸 答唱詩編 詩編33 典46 ①④⑤

答 神の注がれる目は、神を恐れる者に、
  神の愛に希望をおく者の上に。

神の言葉は正しく、
そのわざはいつわりがない。
神は正義と公平を愛し、
いつくしみは地に満ちている。 【答】

神はその住まいから、
地に住むすべての人に目を注がれる。
神は一人ひとりの心をつくり、
そのわざを見抜かれる。  【答】

神はたて、神はすくい、
わたしたちは神を待ち望む。
心は神のうちにあってよろこび、
とうといその名により頼む。 【答】

🌸 第二朗読 (ヘブライ4.14-16)

 14〔皆さん、〕わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。 15この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。 16だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

アレルヤ唱 典270 29B

アレルヤ、アレルヤ。人の子が来たのは使えるため、多くの人のあがないとして自分の命を与えるため。アレルヤ、アレルヤ。

🌸 福音朗読 (マルコ10.35-45、または10.42-45)

マルコによる福音
 35〔そのとき、〕ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 36イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、 37二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 38イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 39彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。 40しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」 41ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。 42そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 43しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 44いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 45人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

奉納祈願

すべての人の父である神よ、招かれた喜びのうちに私たちはあなたのもとに進み出ます。主の死と復活うを記念するわたしたちのうちに、自分をささげる心がはぐくまれますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。

拝領祈願

信じる者の力である神よ、キリストのからだのうちに一つに結ばれて祈ります。わたしたちが互いに兄弟姉妹として、喜びや苦しみをともにすることができますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 今日の福音書が述べた出来事はエルサレムへの途上に起こった出来事です。これ以前に主イエスは受難予告を三度行いました。弟子たちはそれを聞いて、驚き恐れましたが、二度目まで弟子たちはこの受難予告がまだ理解できませんでした。三度目に彼らは正しくそれを理解し始めました。このような文脈から考えるなら、ヤコブとヨハネは、主イエスに従うことによってもたらされる自分たちの運命を理解し始めていたに違いないのです。すなわち、彼らは、エルサレムで何が起こるか、エルサレムで彼らを待つ出来事が恐ろしいものとなる、と知っていました。だから、彼らは自分たちを待ち受ける大変な運命を認めた上で、その苦しみの後には、主イエスの隣に座る栄光があって欲しいのです。栄光を待っているのでなければ、エルサレムで始まる苦難は意味がない、そういうふうに考え、主イエスに栄光を願ったわけです。

 しかし、主イエスは彼らの要求を断りました。なぜ主イエスが断りましたかというと、彼らに栄光を与えることを望まないわけではなく、むしろ苦しむことそのことに積極的な意味があることを教えるためです。苦しみはその後の栄光を待って始めて、という意義を持つのではありません。苦しみそのものに意味があります。ヤコブとヨハネにとっては、苦難は栄光を手に入れる手段だと思ってしまいます。しかし、主イエスはそのように考えておられません。苦しみは無意味ではなく、それこそが主イエスと交わり、主イエスに従う道なのです。それを示すために、主イエスは「このわたしが飲む杯、…このわたしが受ける洗礼」と述べて、「わたし」を強調するのではないかと思います。すなわち、今のところ、主イエスのように、主イエスと共にこの受難の道を歩む必要があるということでしょう。

 ところで、主イエスの道は人々に仕える道です。この社会の中、少しでも高いところへ、競争して上へ上へと目指していきたい多くの人々がいるかもしれません。けれども、神様の前で、人間同士、誰が上で、誰が下で、ということは関係ないのです。今日の福音で、主イエスは、「仕える者になりなさい」、「僕になりなさい」と言いますが、少なくとも、私にとっては解放の福音だと感じています。もしも、皆さんが上下関係などいろんな意味で人と比較して悩んだり苦しんだりしているならば、今日の福音を本当に解放の福音だと感じていただければ、と思います。「仕える者になりなさい」、「僕になりなさい」人間のレベルだけ見ていたら、損な生き方になるかもしれません。でも、神様との関係を見つめたとき、新たな光が与えられると思います。私たちはみな神様の僕(しもべ)だというところに立って、そして、そのことを喜んで生きられる、という生きかたに招かれています。神様が私たちを僕として、私たちを仕える者としてここに置いてくださっています。

 主イエスの道はまさにそういう道です。自分を無にして、徹底的に人々に仕え、人々のために自分の命までも差し出していく道、それが主イエスの道でしたし、私たちを解放していく道は、このイエスの道なのだ、ということを今日、受け取って頂ければと思います。 主イエスのように人々に仕えるために、報いを求めずに苦難を歩めたら、そのほうがはるかに素晴らしいに違いありません。ですが、恐れのあまりよたよた歩く頼りない弟子ではあっても、主イエスの後を追っています。弟子とはそういう者なのでしょう。私たち一人ひとりが主イエスと共に、仕える者としての、そして、神の僕としての道に招かれていることを感謝しながら、今日のミサをささげ続けたいと思います。

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
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