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教皇の意向:女性の役割 (4月)

年間第二十水曜日(8/23)

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後にいる者が先になり、

マタイ20:16
集会祈願

🌸 第一朗読 (士師記9.6-15)

 6〔その日、〕シケムのすべての首長とベト・ミロの全員が集まり、赴いて、シケムの石柱のあるテレビンの木の傍らでアビメレクを王とした。 7このことがヨタムに知らされると、彼はゲリジム山の頂に行って立ち、大声を張り上げて言った。
 「シケムの首長たちよ。
 わたしの言うことを聞いてください。
 そうすれば、神はあなたたちの言うことを
 聞き入れてくださる。
 8木々が、だれかに油を注いで
 自分たちの王にしようとして
 まずオリーブの木に頼んだ。
 『王になってください。』
 9オリーブの木は言った。
 『神と人に誉れを与える
 わたしの油を捨てて
 木々に向かって手を振りに
 行ったりするものですか。』
 10木々は、いちじくの木に頼んだ。
 『それではあなたが女王になってください。』
 11いちじくの木は言った。
 『わたしの甘くて味のよい実を捨てて
 木々に向かって手を振りに
 行ったりするものですか。』
 12木々は、ぶどうの木に頼んだ。
 『それではあなたが女王になってください。』
 13ぶどうの木は言った。
 『神と人を喜ばせる
 わたしのぶどう酒を捨てて
 木々に向かって手を振りに
 行ったりするものですか。』
 14そこですべての木は茨に頼んだ。
 『それではあなたが王になってください。』
 15茨は木々に言った。
 『もしあなたたちが誠意のある者で
 わたしに油を注いで王とするなら
 来て、わたしの陰に身を寄せなさい。
 そうでないなら、この茨から
 火が出て、レバノンの杉を焼き尽くします。』

🌸 答唱詩編 詩編72 典60①⑤

アレルヤ唱 典271 ⑯

🌸 福音朗読 (マタイ20.1-16)

マタイによる福音

 1〔その時、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。〕「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。 2主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。 3また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、 4『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 5それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 6五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、 7彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。 8夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。 9そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 10最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 11それで、受け取ると、主人に不平を言った。 12『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 13主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 14自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 15自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 16このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 マタイ福音書には、天の国についてのたとえがたくさんありますが、受難を前にしたイエスの説教の中にもたとえがいくつか出てきます。なぜそれほど多くのたとえを使って話されたのでしょうか。それは、イエスが「神の国」というものを何としても人々に訴えたかったからでしょう。そして、それが人間の常識や理屈にこだわる限り、決して理解できない、奥深い真理、また、神秘だったからではないでしょうか。
 今日の箇所を読むと、今では、それほど見られなくなったかもしれない、建設現場で働くために仕事を求めて朝から並ぶ日雇い労働者のことを思い出します。イエスの時代にも、そのように仕事を求める人々がいたのでしょうか。
 このたとえを文字通り受け取ると、様々な問題が見つかります。そもそも、朝一番から働いた人と、午後、しかも、夕方から働いた人に同じ額を払うのは不正ではないか。そして、朝から何回も労働者を雇いに広場に出かける雇い主などどこにいるだろうか。また、「自分のものを自分のしたいようにしてはいけないか」という発言はあまりに横柄ではないか、など。
 しかし、たとえば、洗礼の恵みを受けたときのことを考えると、ある人は幼児洗礼、ある人は成人洗礼、また、ある人は臨終洗礼です。時期は異なっても、いただく恵みは同じです。人生にしても、ある人は短命、他の人は長寿、ある人は健康な一生、他の人は生涯病気と戦う。しかし、いただいた命の恵みは同じです。人と比べてではなく、このありのままの自分を受け入れてくださる神の愛、そして、そこに始まる「神の国」の現実―秘儀―を読み取るべきではないでしょうか。(S.T.)

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
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