♰ キリストにおいてすべてを新しく見る ♰

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教皇の意向: 新たな殉教者 (3月)

年間第二十火曜日(8/22)

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神は何でもできる

マタイ19:26

天の元后聖マリア(記)

集会祈願

🌸 第一朗読 (士師記6.1-24a)

 11〔その日、〕主の御使いが来て、オフラにあるテレビンの木の下に座った。これはアビエゼルの人ヨアシュのものであった。その子ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた。 12主の御使いは彼に現れて言った。「勇者よ、主はあなたと共におられます。」 13ギデオンは彼に言った。「わたしの主よ、お願いします。主なる神がわたしたちと共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちにふりかかったのですか。先祖が、『主は、我々をエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えた、驚くべき御業はすべてどうなってしまったのですか。今、主はわたしたちを見放し、ミディアン人の手に渡してしまわれました。」 14主は彼の方を向いて言われた。「あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。わたしがあなたを遣わすのではないか。」 15彼は言った。「わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」 16主は彼に言われた。「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる。」 17彼は言った。「もし御目にかないますなら、あなたがわたしにお告げになるのだというしるしを見せてください。 18どうか、わたしが戻って来るまでここを離れないでください。供え物を持って来て、御前におささげしますから。」主は、「あなたが帰って来るまでここにいる」と言われた。19ギデオンは行って、子山羊一匹、麦粉一エファの酵母を入れないパンを調え、肉を籠に、肉汁を壺に入れ、テレビンの木の下にいる方に差し出した。 20神の御使いは、「肉とパンを取ってこの岩の上に置き、肉汁を注ぎなさい」と言った。ギデオンはそのとおりにした。 21主の御使いは、手にしていた杖の先を差し伸べ、肉とパンに触れた。すると、岩から火が燃え上がり、肉とパンを焼き尽くした。主の御使いは消えていた。 22ギデオンは、この方が主の御使いであることを悟った。ギデオンは言った。「ああ、主なる神よ。わたしは、なんと顔と顔を合わせて主の御使いを見てしまいました。」 23主は彼に言われた。「安心せよ。恐れるな。あなたが死ぬことはない。」 24ギデオンはそこに主のための祭壇を築き、「平和の主」と名付けた。

🌸 答唱詩編 詩編85 典81 ③④

アレルヤ唱 典273 26C

🌸 福音朗読 (マタイ19.23-30)

マタイによる福音

 23〔そのとき、〕イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。 24重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 25弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。 26イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。 27すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」 28イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。 29わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。 30しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 「金持ちが天の国に入るのは難しい。」イエスは弟子たちに向かってそう言われるが、それは、昨日読まれた箇所に登場した青年が金持ちだったからだろう。弟子たちが金持ちだったかわからない、そうかと言って、皆貧しい人だったと断定することもできない。金持ちであれ、貧しいものであれ、すべての人に向けられた言葉と取るべきだろう。
 旧約聖書の中で、財産に恵まれること、子々孫々まで見ること、それが神の祝福と考えられた。貧しい人を思いやること、貧しい人を虐げないこと、それはよいことと思われた。ただ、貧しくなれ、とは一度も言われたことがない。
 しかし、イエスは言う、「(心の)貧しい人は幸いである」と。貧しくなること、自分の持ち物を捨てること、それが、神の国に入るための必須条件だ、と言っておられるように聞こえる。たまたま貧しくあることを、恐れずに受け入れるのでなく、貧しくあることを積極的に自分の生き方とすること、そこにイエスの示す神の国への道がある。その場合、貧しい、ということは、財産を持たないということではなく、マタイがあえて「心の貧しい人」と言ったように、自らの小ささ、みじめさを知りながら、それを謙遜に受け入れ、すべてを神に委ねる、そんな、打ち砕かれた状態にあることを指すのではないか。
 ペトロは、「何もかも捨ててあなたに従って参りました」と豪語した。しかし、それで、彼の使命が遂行されたわけではない。ただ、出発点に立っただけのことである。生涯、神の前に貧しいものとなってゆくこと、それだけ、主のものとなって行くこと、それが弟子の歩む道なのではないか。(S.T.)

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
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