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教皇の意向:修道士・修道女と神学生の養成 (5月)

年間第十四木曜日(7/13)

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『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。

マタイ10:7
集会祈願

🌸 第一朗読 (創世記44.18-21a、23b-29、45.1-5)

 18ユダはヨセフの前に進み出て言った。「ああ、御主君様。何とぞお怒りにならず、僕の申し上げますことに耳を傾けてください。あなたはファラオに等しいお方でいらっしゃいますから。19御主君は僕どもに向かって、『父や兄弟がいるのか』とお尋ねになりましたが、 20そのとき、御主君に、『年とった父と、それに父の年寄り子である末の弟がおります。その兄は亡くなり、同じ母の子で残っているのはその子だけですから、父は彼をかわいがっております』と申し上げました。 21すると、あなたさまは、『その子をここへ連れて来い。自分の目で確かめることにする』
23『その末の弟が一緒に来なければ、再びわたしの顔を見ることは許さぬ』と僕どもにおっしゃいました。 24わたしどもは、あなたさまの僕である父のところへ帰り、御主君のお言葉を伝えました。 25そして父が、『もう一度行って、我々の食糧を少し買って来い』と申しました折にも、 26『行くことはできません。もし、末の弟が一緒なら、行って参ります。末の弟が一緒でないかぎり、あの方の顔を見ることはできないのです』と答えました。 27すると、あなたさまの僕である父は、『お前たちも知っているように、わたしの妻は二人の息子を産んだ。 28ところが、そのうちの一人はわたしのところから出て行ったきりだ。きっとかみ裂かれてしまったと思うが、それ以来、会っていない。 29それなのに、お前たちはこの子までも、わたしから取り上げようとする。もしも、何か不幸なことがこの子の身に起こりでもしたら、お前たちはこの白髪の父を、苦しめて陰府に下らせることになるのだ』と申しました。
 1ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。 2ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。3ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。
 4ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。
「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。 5しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。

🌸 答唱詩編 詩編146 典169①④

アレルヤ唱 典268 ③

🌸 福音朗読 (マタイ10.7-15)

マタイによる福音
 7〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。 8病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。 9帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。 10旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。 11町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。 12その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。 13家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。 14あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。 15はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 使徒たちが派遣されるにあたって語られた言葉。いわば、宣教者の使命と言ってよいかもしれない。まずは、「天の国(神の国)は近づいた」と宣言すること。これが、すべての中心。イエスの働きは三つ:教えること、福音を宣べ伝えること、そして、癒しを行うこと。ここでは、最初の「教える」が言われていないのはなぜか。
 使徒たちの後継者である、司教、司祭は「教える」ことにかなりのエネルギーを注いでいる。勉強会、講演会、出版、そして、ミサごとの説教等、それも大事なこと。無視されているわけではない。しかし、宣教の中心は「神の国」の現実がそこまで来ていること、あるいは、すでに来ていることを告げること。神が人々の中で、生き働いていることを、それぞれの形で証しすること。使徒のような、特別ないやしの恵みは受けていないかもしれない、主イエスを直接体験したことはないかもしれない。しかし、その人の中に、人生の様々な出会いや体験を通して、神が働いていてくださることを語り、分かち合うこと。それではないか。
 そして、さりげなく添えられている言葉:「人々がそれを受けるにふさわしければ」とある。そのふさわしさは、その人が持って生まれた才能や性格、成長と共に身に着けた知識や技術、といったものではなく、神が与える恵み、人間が働く前に、神が用意していてくださる、そんな「開かれた心」。辛い、人に言えない経験かもしれない。忘れてしまいたい、失敗の経験かもしれない。それによって、「砕かれ」、へりくだることを学んだこと、そこに神が働く場があるのではないか。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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