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教皇の意向:修道士・修道女と神学生の養成 (5月)

年間十三月曜日(6/28)

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人の子には枕する所もない

マタイ8:20

聖イレネオ司教殉教者 記念日

集会祈願

🌸 第一朗読 (創世記18.16-33)

 16その人たちはそこを立って、ソドムを見下ろす所まで来た。アブラハムも、彼らを見送るために一緒に行った。 17主は言われた。
 「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。 18アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。 19わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」
20主は言われた。
 「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。 21わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」
 22その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。 23アブラハムは進み出て言った。
 「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。 24あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。 25正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
 26主は言われた。
 「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」
 27アブラハムは答えた。
 「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。 28もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」
 主は言われた。
 「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」
 29アブラハムは重ねて言った。
 「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」
 主は言われた。
 「その四十人のためにわたしはそれをしない。」
 30アブラハムは言った。
 「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」
 主は言われた。
 「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」
 31アブラハムは言った。
 「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」
 主は言われた。「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」
 32アブラハムは言った。
 「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」
 主は言われた。
 「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」
 33主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。

🌸 答唱詩編 詩編103 典93 ①③

アレルヤ唱 典261 ③

🌸 福音朗読 (マタイ8.18-22)

マタイによる福音
 18〔そのとき、〕イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。 19そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。 20イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 21ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。 22イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 イエスに声をかけられずに、自分からお供をしたい、という者に、イエスは、かなり厳しい言葉をもって対応される。一人には、ただ、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われ、「まず、父を葬りに行かせてください」という者には、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」という。さらに、ルカが記すように、「家族にいとまごいに行かせてください」という者に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」とも言われた。
 そもそもイエスに従う、イエスの弟子になるということは、当時のユダヤ教のラビになるように、養成学校に行き、然るべき師のもとでしっかり教えを身に着け、資格を取ることとは、根本的に異なるものであることを知らなければならない。それは、生涯にわたる生き方の選択にかかわること、全面的に、イエスに自分を委ねることと弁えねばならない。
 昔、ボーイスカウトにいた頃、”Once a scout,always a scout”という言葉をよく聞いた。そこには、「誓い」という厳粛な意味があるが、イエスの弟子になることは、さらに、全人格的な、奉献、帰依の側面がある、と言うべきか。
 旧約聖書の中で、モーセは言う、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6.5)、そして、「あなたの隣人を自分と同じように愛しなさい」(レビ19.18)と。イエスの弟子になるとは、その同じ心を、文字通り、人となられた神の子イエスに向けて生きることにあるといってよいのではないか。(S.T.)

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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