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帰りなさい。あなたの息子は生きる。

ヨハネ4:50
集会祈願

🌸 第一朗読 (イザヤ65:17-21)

イザヤの預言

17見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。
初めからのことを思い起こす者はない。
それはだれの心にも上ることはない。
18代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。
わたしは創造する。
見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして
その民を喜び楽しむものとして、創造する。
19わたしはエルサレムを喜びとし
わたしの民を楽しみとする。
泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。
20そこには、もはや若死にする者も
年老いて長寿を満たさない者もなくなる。
百歳で死ぬ者は若者とされ
百歳に達しない者は呪われた者とされる。

21彼らは家を建てて住み
ぶどうを植えてその実を食べる。

🌸 答唱詩編 詩編30 典65①④

アレルヤ唱 典263⑥

🌸 福音朗読 (ヨハネ4:43-54)

ヨハネによる福音

 〔そのとき、イエスはサマリア〕を出発して、ガリラヤへ行かれた。 44イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。 45ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。
 46イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。 47この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。 48イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。 49役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。 50イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。 51ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。 52そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。 53それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。 54これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 今日福音の個所の中で、主イエスは再びガリラヤのカナに行かれて、そこで再び不思議な業を行われたという出来事が語られています。

 ある王の役人がやく30キロぐらい離れているカファルナウムからカナにやってきて、来て、死にかけている息子を癒してくださるよう懇願しました。しかし、主イエスは「帰りなさい。あなたの息子は生きる」という言葉だけを彼に言われました。役人はそのままみ言葉を受け入れて、それを信じながら帰りました。結果を見る前に信じました。これは非常に不思議なことでしょう。そしてその後に、結果を分かって、王の役人もその家族も皆こぞって信じたと述べられています。

 「聞いて」「信じて」「生きる」という言葉はヨハネ福音書によって、大事なキーワードです。

 今日の個所の直前に主イエスとサマリアの女の出会いの話しが記されます。その話しの最後は、彼女の話しを聞いて、主イエスのところに来て、二日間主イエス自身から話しを聞いた町の人々が次のような言葉を語っています。

「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

 ここには「しるしを見て」の信仰ではなく、主イエスの言葉を「聞いて」主イエスが「本当に世の救い主であると分かり」、そして「信じる」という信仰があります。その流れを受けて、今日の箇所になるのです。その話しの中核は、王の役人が、主イエスの言葉を聞いて信じて帰って行ったということであり、その結末は、王の役人とその家族が主イエスを「信じた」というものです。

 同じ概念で、主イエスの傷を見ないと、またその傷に触ってみないと信じていないトマスが復活した主イエスと出会った場面が思い起こさせられました。主イエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と言われました。ほかの使徒、ほかの仲間から主イエスが復活して今生きておられるということを聞いても信じるならば幸いであるというメッセージでしょう。

 役人が父親として求めていることと、主イエスが与えようとしていることが違います。主イエスはカナの町から離れないし、言葉だけを与えます。その言葉も、「あなたの息子は癒される」ではなく、「あなたの息子は生きる」です。この「生きる」という三度繰り返される言葉です。

 昨日の福音は「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)と語りました。主イエスを信じるなら、生きる、永遠の命を得るのです。主イエスは受難を受けた後に、復活して、今生きておられます。

 私たち一人一人も主イエスの内に生きる者とされ、主イエスも私たちの内に生きてくださいます。つまり、主イエスが生きているから、私たちキリスト者も生きています。それは、もう肉体の命を生きるという意味にとどまりません。肉体の死を越えて永遠の命を生きます。神との愛の交わりの中を生きる者とされるという意味で「生きる」のです。

 主イエスが、王の役人に「あなたの息子は生きる」とおしゃった時、その息子は、こういう意味で「生きる」のです。もちろん、この時の役人は、主イエスの言葉の中に、そこまでの意味がこもっていると理解して「信じた」わけではないでしょう。けれども、彼は主イエスの言葉を信じました。そこにある力、圧倒的な権威を感じて、信じたのだと思います。

四旬節第四月曜日(3月15)
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