非営利団体のボランティアのために祈る (12月)

四旬節第四主日(3月14)

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神は、世を愛された

ヨハネ3:16
集会祈願

🌸 第一朗読 (歴代誌下36:14-16、19-23)

歴代誌

 〔そのころ、ユダの王ゼデキヤは主の目に悪とされることを行った。〕14祭司長たちのすべても民と共に諸国の民のあらゆる忌むべき行いに倣って罪に罪を重ね、主が聖別されたエルサレムの神殿を汚した。 15先祖の神、主は御自分の民と御住まいを憐れみ、繰り返し御使いを彼らに遣わされたが、 16彼らは神の御使いを嘲笑い、その言葉を蔑み、預言者を愚弄した。それゆえ、ついにその民に向かって主の怒りが燃え上がり、もはや手の施しようがなくなった。
 19神殿には火が放たれ、エルサレムの城壁は崩され、宮殿はすべて灰燼に帰し、貴重な品々はことごとく破壊された。 20剣を免れて生き残った者は捕らえられ、バビロンに連れ去られた。彼らはペルシアの王国に覇権が移るまで、バビロンの王とその王子たちの僕となった。 21こうして主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地はついに安息を取り戻した。その荒廃の全期間を通じて地は安息を得、七十年の年月が満ちた。
 22ペルシアの王キュロスの第一年のことである。主はかつてエレミヤの口を通して約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた。キュロスは文書にも記して、国中に次のような布告を行き渡らせた。
 23「ペルシアの王キュロスはこう言う。
 天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、上って行くがよい。神なる主がその者と共にいてくださるように。」

🌸 答唱詩編 詩編137 典28①②

🌸 第二朗読 (エフェソ2:4-10)

使徒パウロのエフェソの教会への手紙

 〔皆さん、〕憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 5罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― 6キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。 7こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。 8事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。 10なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

アレルヤ唱 典260(第四主日B)

🌸 福音朗読 (ヨハネ3:14-21)

ヨハネによる福音

 〔そのとき、イエスはニコデモに言われた。〕モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
 16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 3月も半ばになり、ようやく春の訪れを感じつつも、まだ寒い朝晩に体が縮こまる思いをします。四旬節、そして、信仰者の生き方も、そのようなものかもしれません。3日前、多くの人は、10年前に起きた未曽有の災害、東日本大震災の被災者のために祈りました。まだ、2000人を超える行方不明者がおり、4万を超える方々が故郷に帰ることができずに避難地での生活を送っておられます。そして、ちょうど今、世界中は、新型コロナ感染症の広がりに、まだ、完全に癒えることない日々を過ごしています。一方で、救いの喜びを確信しながら、同時に、今の時の苦しみ、痛み、悲しみから完全に解放されることのない現実をともに生きているのです。

 今日の第一朗読は、普段あまり読まれることのない、「歴代誌」という、イスラエルの歴史、それも、おもに南王国ユダの歴史を綴った書物の一節が読まれました。エルサレムにまで、攻撃の手を緩めなかった北方の強国バビロニアによって、王の宮殿はおろか、信仰の中心であった神殿までも焼き尽くされ、その財宝、また、王侯一族、祭司、すべて主だった人々はバビロンに連行されました。いわゆるバビロン捕囚のはじまりです。

 「歴代誌」は、さらに、バビロンで捕囚の生活を送ったユダの民が、バビロニアの後を継いだペルシャによって、70年とも言われる長い捕囚生活の後、祖国への帰還が許され、神殿を再建したことを伝えています。そして、最後に、それは、預言者エレミヤによって約束された神の計画であることを記して文書を締めくくっています。何度読んでも、神の慈しみの深さ、広さに感動させられます。

 今日のヨハネの福音は、有名な「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉を記す3章から読まれました。その前に、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」とありました。荒れ野で蛇を上げた」というのは、エジプトを脱出したイエスラエルが、砂漠をさまよう間、蛇に襲われ、多くの犠牲者が出たその時、モーセが青銅の蛇を作って高く掲げ、それを見上げた人が救われた故事に因んでいます。ヨハネは、その出来事を引き合いに出し、十字架につけられた(上げられた)イエスが、人々を救う者となられたことを記しているのです。

 「独り子を与えるほどに、世を愛された」という言葉は、あの十字架という、もっとも忌まわしい、罪人としての最期を受け入れられたのは、イエスご自身が人々に対して抱いておられた愛であるばかりでなく、イエスをこの世にお遣わしになった父なる神が、愛する独り子をさえ惜しまず捧げられた、罪深い人間に対する神ご自身の限りない愛であることを示しています。そして、それは、そのような死を受け入れた方を信じる人が、真の命、永遠の命を得るためである、とヨハネは説いています。

 真の命、終わることのない永遠の命への道が、人間が行うよい業ではなく、罪びとであり、無力でありながらも、もっぱらそのような方を信じる、信仰によるものであることを、第二朗読の「エフェソの教会への手紙」は雄弁に語っています。「あなたがたの救われたのは恵みによる」と言われます。恵みは一方的に神から与えられるものです。しかし、その恵みが恵みとなるのは、人間がそれに応えて自らを開く、信仰によるものであることを思い起さねばなりません。パウロは言います、「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることがないためなのです」。パウロ自身、かつて信じていた律法の行いによる義から180°転換した新しい生き方がそこに提示されています。そして、ここにこそ、わたしたちの信仰の核心があるのです。つい、自分の行いに頼り、過信し、ときに、人を裁いてしまうわたしたちですが、あらためて信仰に生きる生き方に徹することができますよう祈りましょう。

3週間後に迫った復活祭に向けて、一層の熱心な心で、主イエスのみ跡を辿る恵みを祈りながら、ミサを続けましょう。(S.T.)

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