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朝早くまだ暗いうちに、イエスは祈っておられた

マルコ1:35
集会祈願

希望の光を注いでくださる神よ、あなは悩み苦しむ世界に救い主を遣わしてくださいました。わたしたちが、きょう祝う教会の秘跡を通して、すべての人をいやしてくださるキリストに出会うことができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

🌸 第一朗読 (ヨブ7.1-4、6-7)

1この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。
傭兵のように日々を送らなければならない。
2奴隷のように日の暮れるのを待ち焦がれ
傭兵のように報酬を待ち望む。
3そうだ
わたしの嗣業はむなしく過ぎる月日。
労苦の夜々が定められた報酬。
4横たわればいつ起き上がれるのかと思い
夜の長さに倦み
いらだって夜明けを待つ。
6わたしの一生は機の梭よりも速く
望みもないままに過ぎ去る。
7忘れないでください
わたしの命は風にすぎないことを。
わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう。

🌸 答唱詩編 詩編147 典27 ①②③

 栄光は世界に及び、すべてを越えて神は偉大。

神をたたえ、賛美の歌をうたおう。
神をたたえることは、美しく正しい。
神はエルサレムを立て直し、
その散らされた者を集められる。  【答】

神は星の数を定め、
そのすべてに名をつけられる。
わたしたちの主は力に満ちて偉大。
その知恵ははかり知れない。  【答】

神は失意の人々を支え、
その傷をいやされる。
へりくだる人を支え、
逆らう者を地に倒される。  【答】

🌸 第二朗読 (一コリント9.16-19、22-23)

 16〔皆さん、〕わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。 17自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。 18では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。
19わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
 22弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。 23福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。

アレルヤ唱 典268 5B

アレルヤ、アレルヤ。主はわたしたちの病を身に負い、わたしたちの苦しみを担ってくださる。アレルヤ、アレルヤ。

🌸 福音朗読 (マルコ1.29-39)

マルコによる福音
 29〔そのとき、イエスは〕会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。 30シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 31イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。 32夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。 33町中の人が、戸口に集まった。 34イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
 35朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。 36シモンとその仲間はイエスの後を追い、 37見つけると、「みんなが捜しています」と言った。 38イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 39そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

奉納祈願

生きる力を与えて下さる神よ、主の食卓を囲むわたしたちの祈りを聞き入れてください。キリストの愛に結ばれ、互いに仕え合う喜びに満たされますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

拝領祈願

聖霊の息吹で満たしてくださる神よ、あなたはいつもわたしたちの手を取って立ち上がらせてくださいます。新たな力をいただいたわたしたちが、勇気と喜びをもって福音を告げ知らせることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 2月に入り、立春も過ぎました。少しずつ春の訪れを感じるようになりましたが、なかなかコロナ禍から解放されるには至りません。いきおい、行動にも、生活にも、制約がかかる毎日ですが、どう過ごしてゆけばよいのでしょうか。東京など、首都圏の教会は、緊急事態宣言の解除が延期され、公開ミサもできない状態が続いています。

 そんな状況のもとで生きるわたしたちに、今日のみ言葉は何を語っているでしょうか。マルコの福音は、一言でいえば、イエスの典型的な一日を表しています。安息日を会堂で過ごされた後、イエスは、弟子たちとともに、シモンとアンデレの家に行ったとあります。一番親しい、身内に近い人々です。しかし、そこでシモンの姑が熱を出して臥せっているのを知り、早速彼女のもとに行って、「手を取り起こされると、熱は去り、彼女は一行をもてなした」とあります。コロナ禍で、教会に足を運ぶことのできない高齢者のことが頭に浮かびます。

 とかくするうちに、夕方になると、人々はわれ先にと、病人や悪霊につかれた人を連れてイエスのもとにやってきます。安息日が終わって、働くことが許される時間になったからでしょうか。パレスチナでは、一日は日没から始まるとされています。イエスは、そうした病人一人一人を大事にし、病気を癒されます。悪霊につかれた人は、霊を追い出し自由にして帰されます。

 イエスはシモンの家で一夜を過ごされたのでしょうか、翌朝早く、まだ暗いうちに、イエスは 起き出して、「人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」とあります。どれほど忙しく、疲れがたまる安息日の後でも、イエスは必ず祈りの時間を取られます。毎朝、3時に起きて、祈りと霊的務めをすべて終えて朝を迎えると言われた、イエズス会総長になられたアルぺ神父のことを思い出します。イエスの、人々を引き寄せる力、あふれる愛、そして深い喜び、それは、毎日の御父との祈りから来たのではないでしょうか。イエスの働きは、安息日の礼拝だけでなく、毎日の隠れた祈りによって支えられ、その祈りによって実を結んだ、と言えるのでしょう。

 しかし、祈りは、終着点ではありません。人々がイエスの後を追って押し寄せてこようとしたとき、イエスは言われます「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである」と。

 イエスの心は、親しい人々から、近所の人々へと広がり、さらには、もっと遠くに住む人々にも及びます。皆、同じ父なる神の子だからです。「ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」。ガリラヤ中の会堂とは、どのくらいあったのでしょうか。北ガリラヤだけでも、紀元1世紀には、30を数えたと言われています。エルサレムだけでも400を超える会堂があったと言われます。そのような会堂に集まる多くの人々にイエスの心は向かっていたのです。

 これがイエスの一日です。3年余り、そのような生活を続けられたのです。人間の現実の中に、どっぷりとつかって生きられたメシアの姿です。そのようには生きられない。とても体がもたない。3年だからできたのだろう。いろいろ反応はあるでしょう。しかし、イエスの一日から学ぶことはないでしょうか。イエスはその生き方から何を教えようとしておられたのでしょうか。

 イエスの働きで目立つのは、働きと祈りの調和ということです。修道生活の父とも言われるベネディクトのモット―は「祈れ、働け(Ora et labora)」ということです。あるドイツ人司祭は、先輩司祭の通夜の説教の中で、その司祭から晩年に聞いたという二つのオールの話をされました。それは、ライン川でのボートこぎの話です。一方の側のオールをこげば、舟は先へ進むどころか、同じところをぐるぐる回る、両方のオールをしっかりこいで、はじめて舟は前に進むと。そして、「わたしは右のオールだけ使い過ぎた。わたしの人生は相当流された」と。まさにそのようなものです。いつの間にか、自分の力に頼って働きすぎて、疲れるばかりで先へ進んでいないことがないでしょうか。

 また、自分に近い人にだけ目が向かい、より広い世界の人々に全く目が向かない、ということはないでしょうか。「互いに愛し合いなさい」と言われます。兄弟を自分のように愛しなさい、と言われます。その通りです。しかし、どこかで、自分のかかわりを狭く限定してしまっていないでしょうか。直接、自分とかかわりのない、見ず知らずの人であっても、自分の助けを必要としている人に出会ったら、善いサマリア人のように、ろばから降りて、傷の手当てをする、面倒を引き受ける覚悟をもっているでしょうか。

 イエスの働きを思い起こしながら、自分の生き方を振り返り、少しでも、イエスの心に倣った生き方ができますよう、お祈りいたしましょう。(S.T.)

🌸 他の分かち合い

 今日の福音書は主イエスの一日の宣教活動を紹介してくださいます。主イエスが「神の国の到来」を宣べ伝えます。主イエスの周りに集まった人々は、悪霊に取りつかれていた人が正気になり、病人が立ち上がるのを見て、確かにここに「神の国」が始まっていると感じたことでしょう。今の私たちにとって、神の国の到来はどのような形で実現していると言えるでしょうかということを心に留めていただきながら、また今、ミャンマーを覆っている暗闇と分裂が、正義と対話によって打ち払われますようにこのミサを捧げてまいりましょう。

 先週の福音の箇所で、主イエスは安息日に会堂で教え、悪霊に取りつかれていた人をいやしました(マルコ1:21-28)。今日の箇所はそれに続いて、同じ1日の間の出来事です。29節「すぐに」、32節「夕方になって日が沈むと」、35節「朝早くまだ暗いうちに」と時間を追って、カファルナウムでの主イエスの活動の様子が伝えられています。

 さて、今日の福音の前半が語られたのはシモンの家で主イエスがシモンのしゅうとめの病気を癒して、そして、連れてきた色々な病気で苦しむ者一人ひとりに手を置いて癒してくださったという出来事です。

 ここで、病気を患っている人がいちばん苦しいのは言うまではありません。けれども、見落とされがちなのは、その病人を抱えている周りの人です。病人の苦しみを見守り、看病し、介護し、共に労苦している家族であり、近所の人々であります。これを読んでみますと、私たちの姿を見ることができると思います。私たちは同じ場で働き、お互いに助け合おうとする良い人間関係を作っていくという姿です。子供たちもお互いに助け合っていくことができますよう、すぐそばに彼らに良いことを教え、また手伝ってあげるという姿です。お年寄りも安全・安心と喜びをもって生きることができますよう、すぐそばに手伝ってあげ、場合によって彼らから知恵を学んでいくという姿です。そしてあらゆる問題や悩みなどを主イエスに捧げながら、神の力をもって頑張っていくことができる姿です。

主イエスは、病人特にシモン・ペトロのしゅうとめに手を置いていやされました。その手から伝わって来たものは、病気を癒す“力”だけではなく、病人の気持を暖かく包む“愛”でもあったような気がします。一人の、生きた人間として見る主イエスの“心”だったような気がします。主イエスの心は、病人の一人一人に向けられました。

そういう心で、主イエスは一人一人と接し、手を置いて、癒しをなさっています。今も、主イエスは私たち一人一人と向かい合い、私たちを見守ってくださっています。このような主イエスの心に倣いましょう。主イエスのような癒しはできませんが、主イエスのように、一人ひとりを大切に接したら良いのではないでしょうか。病気の苦しみを抱えた一人の人に寄り添う。病気で苦しむ者を抱えている一人の人に寄り添う。悲しみや不安を抱えている一人の子供に寄り添う。そこに生まれる暖かい人間関係こそ、「神の国の福音」であり、その関係の中に、主イエスが生きて働いておられるのを感じるのです。

☨東京教区事務局長からミャンマーのための祈りのお願いがあります。東京教区のミャンマー委員のレオ・シューマカ神父が祈りの例文を作り、それは日本語に翻訳されました。ボ枢機卿のメッセージも参照され、祈りの呼びかけをお願いするということです。次のような祈りは共同祈願として使えられることができます。

 『政治的危機の中にあるミャンマーと、私たちの姉妹教会であるミャンマーの教会のために祈りましょう。ヤンゴン教区のボ枢機卿は「平和こそ唯一の道、民主主義はその道の唯一の光」と述べました。今、ミャンマーを覆っている暗闇と分裂が、正義と対話によって打ち払われますように。希望と平和、そして真の和解の共同体を築くために、私たち皆が協力することができますように。』主よ、私たちの祈りを聞き入れてください。
(ボ枢機卿メッセージ全文(英語、和訳)https://tokyo.catholic.jp/info/diocese/41301/

年間第五主日(2月7)
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