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教皇の意向: 新たな殉教者 (3月)

待降節第二月曜日(12月7)

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今日、驚くべきことを見た

ルカ5:26

聖アンプロジオ司教教会博士

集会祈願

???? 第一朗読 (イザヤ35.1-10)

1荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ砂漠よ、喜び、花を咲かせよ野ばらの花を一面に咲かせよ。2花を咲かせ大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられカルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。3弱った手に力を込めよろめく膝を強くせよ。4心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」5そのとき、見えない人の目が開き聞こえない人の耳が開く。6そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで荒れ地に川が流れる。7熱した砂地は湖となり乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは葦やパピルスの茂るところとなる。8そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ愚か者がそこに迷い入ることはない。9そこに、獅子はおらず獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み10主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え嘆きと悲しみは逃げ去る。

???? 答唱詩編 詩編85 典81 ③⑤

アレルヤ唱 典256 ⑪

???? 福音朗読 (ルカ5.17-26)

ルカによる福音
 17ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。 18すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。 19しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。 20イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。 21ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒瀆するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 22イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。 23『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 24人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。 25その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。 26人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana

???? 分かち合い

 「あなたの罪は赦された」というのは、「あなたは罪人だ」という言葉で終わらないのです。最も大切なことは、その罪を認めるときにそれを赦す救い主が私たちにはおられるということです。「あなたはキリスト・イエスにあって罪が赦されている。あなたは罪から解放されている。神様はあなたを深く憐れんでくださる。罪をもう犯さないようにして生きなさい」というその言葉こそ、赦しの意味が現れるではないかと思います。

 中風の男は、自分で熱心に主イエスの所へ行きたいと願ったかどうか分かりません。多分、どうしようもないと諦めて絶望的になっていたのではないでしょうか。この絶望を担い、希望に変えるところに共同体の姿があります。友だちや周りの人々の愛によってやっとの思いで運ばれて来た絶望している男に主は言われました。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と。ここでは、注目して行きたいのは中風の男を、遠いところから主イエスのところに担いできた人々の姿です。

 この箇所は、「主イエスは、その人たちの信仰を見て」と語りました。信仰は見えないが、運んできた彼らの愛の行いを通して信仰を見たということだと思われます。このように、我々の信仰は、われわれの行いに現れるではないかと思います。真実の信仰は、何も言わなくてもその行いを見れば分かるでしょう。

 中風の男の信仰と、その男の仲間たちには、信仰で一致しているとみられています。主イエスはこの人たちの内に、中風を癒してくださるという信仰の一致をみたではないかという風に考えられています。すなわち、我々がばらばらでは、力もでないし、主イエスも奇蹟を行いません。我々が一つになって、主イエスの奇跡にあずかれるのです。

 「あなたがたがのうち、二人がどんなことでも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられる私の父は、それをかなえてくださいます。」(マタイ18:19)。共同体に、この人たちのように、病気で苦しむ人の救いと癒しを願いと祈りにおいて、信仰の一致があるなら、奇蹟が起こるはずだと思います。とにかく、言いたいのは我々の共同体の役割です。共同体の中で、皆が一致しようとするならば、それは信仰をあらわすのです。そして、共同体の中で、誰かが病気になったり、罪を犯したり、絶望したりしたら、その人にすぐそばに来て、その人を助けてあげるなら、こうして、我々の信仰を見せることができるでしょう。

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
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