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教皇の意向: 新たな殉教者 (3月)

福者ペトロ・ファーヴル(8月2)

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 ピエール(ベトロ)・ファーヴルは、1506年4月13日、サボワ地方の村に生まれた。少年ピエールは羊の番をしていたが、学校で学ぼうとして、1516 年、教会司祭が開いている小さな学校に入った。学業の上達が早く、翌年ラ・ローシュに移り、1525 年パリ大学に入学するまでそこで学んだ。

 パリの学寮では、フランシスコ・ザビエルや、15歳も年上のイグナチオと同室であった。彼はイグナチオにアリストテレスを教えることになったが、いつの間にか弟子が教師の霊的指導に当たるようになった。心の苦闘や卒業後のキャリアに関する悩みを抱いていたファーヴルは、イグナチオの助言に救われた。

祈る花:Inoruhana

 ファーヴルは司祭職を選び、1534年5月30日に叙階される直前に、30日間の霊操指導を受けた。同年8月15日、同志7名と誓願をたてる際にミサを司式した。誓願の一つは、エルサレムに渡り異教徒の改心に生涯を捧げるということだった。勉学終了後、ベネチアから出帆することになった。しかし渡航することがかなわず、ローマに赴き、直接に教皇からの派遣を仰ぐことにした。

 1536年、イグナチオは健康回復のためスペインに一時帰国する前に、ファーヴルを同志の世話役とした。彼らは同年11月にパリを後にし、1月にベネチアに着いた時、イグナチオはすでにそこにいた。聖地で働こうとする彼らの決断への教皇の祝福を願うために、ファーヴルはローマに送られた。教皇は彼らを祝福したが、トルコ人との紛争のためおそらく航海できないと予告した。それが現実になったので、仲間たちは11月に聖地を諦めて、皆ローマに集まった。

 そこでファーヴルはサピエンツァ大学で開講するように任命された。次いで1539 年夏、ライネスと共にパルマの聖職者の回心に協力するために派遣され、豊かな実りをもたらした。翌年夏、ウォルムスで開催される宗教会議に皇帝代理に同伴するように命じられた。ルーテル派が栄えるウォルムスに着くと、ファーヴルはすぐに、説教などの司牧活動にいそしんだ。会議がラティスボンに場を移した後、ファーヴルはそこでも司祭、司教、王族などに霊操の指導をしながら、カトリック側の宗教的、道徳的熱意を鼓舞した。

 会議が決裂した後、ファーヴルはスペインに渡り、認可されたばかりのイエズス会の趣旨を説きながら、会がそこにも受け入れられる道を開いた。1542年1月、シュパイエル宗教会議への教皇代理に付き添い、いつものように司牧に励んだ。若きベトロ・カニジオに会い、霊操の指導をしたのも、その時だった。

 1544年7月、ジョアン3世の要望に応え、ファーヴルはポルトガルに派遣された。さらに1546年春、教皇庁を代表する神学園問としてトリエント公会議に派遣されたが、トリエントに向かう途中ローマに寄り、7年ぶりにイグナチオに会った。そこで数年前から想っていた高熱がまた彼を襲った。8月1日に亡くなり、道の聖母の教会(現在のジェズー)に葬られた。

 1872年9月5日、教皇ビオ9世は、故郷サボリで聖人のように称えられたことを認証し、ピエール・ファーヴルを福者の列に加えた。

(編集者:ロバート・キエサ神父、イエズス会日本管区、2010年。)

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