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教皇の意向: 新たな殉教者 (3月)

聖ボニファチオ司教・殉教者

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6月5日 聖ボニファチオ司教・殉教者(記念)  (六八四頃~七五四)

 ボニファチオはドイツの使徒と呼ばれていますが、それだけではなく、フランスの教会も再組織しています。現代のある歴史家によれば、彼は、ヨーロッパにいちばん影響を及ぼしたイギリス人です。彼は、イギリスにキリスト教が伝えられて百年後、六八〇年頃に、イギリスの信仰深い貴族の家に生まれました。七歳からベネディクト会の修道院で教育を受け、十四歳になると他の修道院に移り、入会して勉強を続け、三〇歳で司祭になりました。

 当時中央ヨーロッパは布教地でした。ボニファチオは、神から自分の活動の場がその地であることを知らされ、そこに赴きましたが、失敗してイギリスに帰りました。布教を成功させるには教皇からの信任状が必要であることを知った彼は、ローマに行き、グレゴリオ二世に会いました。そしてねんごろに教えをうけ、ドイツでの宣教活動を開始したのです。そこでベテランの宣教師や司教といっしょに三年間務めました。その後九年間、あらゆるドイツの地を回り、説教を続けるとともに、異邦人に優しく接していきました。それは前任宣教師の異邦人に対する行き過ぎを正したとも見られます。また修道院を布教基地として建てていきました。そしてシスターや女性のすべての信者たちを、布教のためによく手伝わせました。教皇とはいつも密接な関係を保ち、やがてボニファチオは全ドイツの大司教に任命され、司教任命の権限も教皇から受け、多くの地方に司教区を増やしていきました。フランスの教会の二つの公会議に議長として呼ばれ、乱れていたフランスの教会を改善させました。人間味あふれる、情の厚い人で、友人に宛てた手紙からそれを知ることができます。また、自分の国イギリスに対する郷愁がよくあらわされています。

 彼は八〇歳になっても布教旅行を続けました。五〇人ばかりの修道者を連れてのある旅行の時のことです。新しい信者に堅信を授ける式の最中、キリスト教を憎んでいる野蛮人のグループに襲われ、殉教しました。死の間際、刀で守ろうとする人びとに、「刀を納めなさい。聖書は、悪に善をもって応えるように教えています」と言って止め、殺されたのでした。

 フランスとドイツとオランダをカトリック国として統一した有名なチャールズ大帝の父ピピンは、将軍時代からボニファチオを助け、王位に就く時にはボニファチオが司式しました。チャールズ大帝の偉大なわざは、ボニファチオの実であるということができましょう。 聖ボニファチオを通してドイツのために祈りましょう。

C.バリョヌェボ著『ミサの前に読む聖人伝』サンパウロ、2010年。

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