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教皇の意向:使命を担い合う (10月)

四旬節第三火曜日(09/3)

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七の七十倍までも赦しなさい

マタイ18:22
集会祈願

🌸 第一朗読 (ダニエル補遺・アザルヤ11-20)

ダニエルの預言

〔その日、アザルヤは〕火の中で、口を開いて次のように祈った。
「〔主よ、〕11あなたの御名のゆえに
我らを決して見捨てることなく、
あなたの契約を取り消さないでください。
12あなたの愛されたアブラハムと
あなたの僕イサクと
あなたの聖なるイスラエルとに免じて、
あなたの憐れみを
我らから取り去らないでください。
13あなたはこの先祖たちに、
子孫を天の星のように、
海辺の砂のように増やす、と言われました。
14ところが、主よ、
我らはどの民よりも少なくなり、
我らの罪のゆえに、今日、全地で
卑しめられています。
15今や、高官も預言者も指導者もなく、
焼き尽くす献げ物もいけにえも
供え物も香もなく、
憐れみを得るために
献げ物を御前に供える所もありません。
16ただ、砕かれた魂とへりくだる心をもつ我らを
受け入れてください。
17焼き尽くす献げ物の羊と牛のように、
幾万の肥えた小羊のように、
今日の我らのいけにえが、
御前に受け入れられますように。
あなたに従う我らの歩みを全うさせてください。
あなたに信頼する者は辱められないからです。
18今や、我々は心からあなたに従い、
あなたを畏れ、御顔を求めます。
19我らを辱めず、
むしろ、寛容と豊かな憐れみをもって
我らに臨んでください。
20驚くべき御業をもって、我らを救い、
主よ、御名の栄光を輝かせてください。」

🌸 答唱詩編 詩編25 典137①②

アレルヤ唱 典263④

🌸 福音朗読 (マタイ18:21-35)

マタイによる福音

 21そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 22イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。 23そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 24決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。 25しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 26家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。 27その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。 28ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。 29仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。 30しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。 31仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。 32そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。 33わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』 34そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。 35あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 今日の福音のテーマはゆるしです。主の祈りの中で、「私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします」と唱えています。今日読まれた福音書はこの願いの解説のようなたとえ話です。ここでは、私たちのゆるしと神のゆるしとの関係は明らかに示されています。私たちがゆるし合うべきなのはそもそも神が計り知れない大きなゆるしを私たちに与えてくださったからです。その神のゆるしに気づいたら、人間同士はゆるしあうのが当然だ、ということです。主の祈りの、あの部分を唱えるときに、今日語られたたとえ話を思い出してもよいと思います。

 使徒ヨハネが述べたように、神は先に私たちを愛してくださいます。常に私たちを赦してくださいます。ところが、悲惨な出来事にあったとき、どう受け止めたらよいか、本当に戸惑います。大きな自然災害や事故、またコロナの感染、さらに悲惨なテロにあったとき「なぜ?」と私たちはよく問いかけたでしょう。そのような質問に対して、答えはなかなか見つかりません。キリスト教も理不尽な出来事を合理的に説明することはできません。

 ただし、私たちが知っているのは、主イエスご自身がいわれのない罪を着せられ、不当な苦しみを受け、それに耐え、まったく見捨てられて死んでしまったあの十字架の姿です。この十字架の姿を見つめながら、いくら自然災害や事故、また色々な理由で苦しんでいることがあっても、神のいつくしみ、神の赦しを見ることができるでしょう。神はいつも私たちとともに歩んでくださり、私たちと一緒に重荷や苦しみなどを担っておられます。

 教皇フランシスコが呼びかけましたように、「決して倦むことなくゆるしてくださる神の、わたしに対する限りない愛に気づきましょう。」また、とりわけ自分を最も傷つけた人々とともにあって、御父である神のあわれみの似像といっそうなれるように、ゆるしを求め、また他の人々をゆるす霊的習慣をより頻繁に持つよう心がけましょう。「わたしたちはあわれみをもって生きるよう招かれています。まず、神のあわれみがわたしたちのために用いられたからです。」(教皇フランシスコ『イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔』)。

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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