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教皇の意向:使命を担い合う (10月)

年間第十四水曜日(7/10)

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行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい
集会祈願

私たちの神である父よ、心を尽くしてあなたに仕え、すべての人を愛する恵みをお与えください。聖霊による一致のうちに、あなたと共に神であり、世々とこしえに生き、治められる御子、私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。

🌸 第一朗読 (ホセア10:1-3、7-8、12)

ホセアの預言

イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。
実もそれに等しい。
実を結ぶにつれて、祭壇を増し
国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた。
2彼らの偽る心は、今や罰せられる。
主は彼らの祭壇を打ち砕き
聖なる柱を倒される。

7サマリアは滅ぼされ
王は水に浮かぶ泡のようになる。
8アベンの聖なる高台
このイスラエルの罪は破壊され
茨とあざみがその祭壇の周りに生い茂る。
そのとき、彼らは山に向かい
「我々を覆い隠せ」
丘に向かっては
「我々の上に崩れ落ちよ」と叫ぶ。

12恵みの業をもたらす種を蒔け
愛の実りを刈り入れよ。
新しい土地を耕せ。
主を求める時が来た。
ついに主が訪れて
恵みの雨を注いでくださるように。

🌸 答唱詩編 詩編105 典94②③

答:心を尽くして神をたたえ、すべての恵みを心に留めよう。

神をさがし求める者よ、心から喜べ。
神にその力を求め、いつもその顔を慕い求めよ。
神が行われた不思議なわざを思い起こせ、
救いのしるしとさばきの言葉を。

神の僕、選ばれた者よ、
神の裁きは世界に及ぶ。
神は契約をとこしえに守られる。
イスラエルのための永遠の契約。

アレルヤ唱 典268③ マルコ1:15

アレルヤ・アレルヤ。神の国に近づいた。回心して福音を信じなさい。アレルヤ・アレルヤ。

🌸 福音朗読 (マタイ10:1-7)

マタイによる福音

  〔その時、〕イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。 2十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、 3フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、 4熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
 5イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。 6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。 7行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。

奉納祈願

万物の造り主である神よ、私たちを養うこのパンとぶどう酒を、尊い命の秘跡としてください。心も体も清められ、あなたに仕えることができますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。

拝領祈願

聖なる父よ、御独り子の死を告げ知らせる秘跡を受けて祈ります。主イエスの限りない愛を注兄弟に仕える元となりますよう者となりますように。主キリストは生きて、治めておられます、世々とこしえに。アーメン。

祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 今日は、マタイによる福音書の特徴であるイエスの5つの講話のうち、2番目の講話を始めます。この講話は、イエスの弟子たちがどのように宣教活動を行うべきか、また、宣教活動を行う際にどのような反応が期待できるかについての指示から成っています。
 冒頭は12弟子の内輪の召集から始まります。マタイは、私たちが彼らの正式な選抜についてすでに知っていることを前提にしていますが、それについては記述していません(マルコとルカの福音書では、使徒の選抜とその後の宣教は明確に区別されています)。この12人の弟子たちは今、使徒と呼ばれています。
 この二つの言葉は意味が違うので、混同してはいけません。弟子(ラテン語でdiscipulus、discereの「学ぶ」から)とは従者のことで、教師から学び、その教えを自分の生活に同化させる人のことです。使徒(ギリシャ語、apostelloからapostolos)とは、使命を帯びて送り出された人、主の教えを他の人に広めるために任命された人のことです。新約聖書では、この2つは区別されています。例えば、すべての福音書は十二使徒について述べており、ルカは72弟子について言及しています。
 しかし、だからといって、この二つの役割が互いに排他的であるということではありません。それどころか、弟子として召された私たちは皆、使徒として積極的に信仰を他の人々に伝えることも期待されているのです。普通のカトリック信者である私たち自身を弟子と見なし、司祭や修道者を教会の使徒的な働きをしていると見なすのはとても簡単なことです。 それは大きな間違いです。弟子として召された私たち一人ひとりは、洗礼と堅信によって、使徒としても召されているのです。
 十二人(そうです、彼らはみな男性でした-そこに多くの論争の原因があるのです!)に適用される『使徒』という言葉には特別な意味があります。彼らはいわば、ペテロを指導者として新しい教会を建てるための柱や土台となるのです。彼らはイエスから受けた伝統を伝え、解釈するという特別な役割を担っていました。その役割は、現在私たちが司教団と呼んでいる人たちに引き継がれ、教皇はその指導者であり代弁者でした。
 その後、パウロが加わり、逆賊ユダの後任としてマティアスが選ばれます。実際、イエスが選んだ人々が混在しているのを見るのは興味深いことです。私たちは彼らのほとんどについて何も知らないのですが、彼らは大部分が素朴な人々でした。ユダはその中で最も有能だったかもしれません。それにもかかわらず、私たちは彼らが並外れた結果を生み出し、止めようのない運動を引き起こしたことを目の当たりにしています。唯一の説明は、それが最終的には聖霊による神の働きであったということです。
 彼らに与えられた最初の指示は、自分たちの活動を自分たちの人々に限定することです。この段階では、異教徒のところに行ってはいけませんし、サマリア人のところに行ってもいけません。契約の継承者として、また神の民として、ユダヤ人が最初にメシアに従うように招かれ、その救いの力を体験するのです。そして彼らの宣言は、イエスが公の説教の最初に行ったのと同じものです:天の国(=神の国)は近づいた。

LivingSpaceより

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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