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たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。

マタイ16:26
集会祈願

 父である神よ、あなたはひとり子イエスはとおして、神に従う者の道をお示しになりました。ここに集うわたしたちが、主のことばに希望を見いだし、主とともに歩む恵みに満たされますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

???? 第一朗読 (エレミヤ20:7-9)

 7主よ、あなたがわたしを惑わし
わたしは惑わされて
あなたに捕らえられました。
あなたの勝ちです。
わたしは一日中、笑い者にされ
人が皆、わたしを嘲ります。
8わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり
「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。
主の言葉のゆえに、わたしは一日中
恥とそしりを受けねばなりません。
9主の名を口にすまい
もうその名によって語るまい、と思っても
主の言葉は、わたしの心の中
骨の中に閉じ込められて
火のように燃え上がります。
押さえつけておこうとして
わたしは疲れ果てました。
わたしの負けです。

???? 答唱詩編 詩編63 典10①②③

答 荒れ地のかわき果てた土のように、
  神よ、わたしはあなたを慕う。

神よ、わたしの神よ、わたしはあなたをしたう。
水のない荒れ果てた土地のように、
わたしの心はあなたを慕い、
からだはあなたをかわき求める。 【答】

あなた力と栄えにあこがれて、
聖所であなたをあおぎ見る。
あなたの恵みはいのちにまさり、
わたしの口はあなたをたたえる。 【答】

いのちのある限り、あなたに感謝、
手を高く上げてあなたの名を呼び求める。
もてなしを受けた時のように、
わたしの心は豊かに満たされる。 【答】

???? 第二朗読 (ローマ12:1-2)

 1兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 2あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

アレルヤ唱 典272 22A

 アレルヤ、アレルヤ。主イエス・キリストの父がわたしたちの心の目を開き、わたしたちがどんな希望に召されているかを示してくださる。アレルヤ、アレルヤ。

???? 福音朗読 (マタイ16:21-27)

マタイによる福音

 21そのとき、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。 22すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 23イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」 24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 27人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。

奉納祈願

 苦しむ人の希望である神よ、救いのことばに力づけられ、感謝のうちに祈ります。今、主の死と復活を記念するわたしたちに、十字架をともに担う力をお与え下さい。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

拝領祈願

 命の源である神よ、恵みに満たされて祈ります。キリストに結ばれたわたしたちが、神にすべてをゆだねて、ひとに尽くすものとなりますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

祈る花:Inoruhana

???? 分かち合い

 先週のミサではペトロの信仰告白と、ペトロを岩としその上に教会を建てるという約束が与えられたことが読まれました。ある意味でイエスの生涯のクライマックス、弟子たちにとっても非常に意識が高揚したときだったのではないでしょうか。

 今日の個所は一転して、メシアが、また、教会が直面しなければならない厳しい現実に目を向けさせます。イエスの受難の予告です。イエスは「ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」(21)と弟子たちに打ち明け始められます。

 イエスがメシアであることを高々と宣言し、岩である自分の上に教会が建てられるとの約束を受けたペトロにとって、大きなショックであったことは否めません。一切を捨てて従い、最も近いところに侍らせていただいたペトロにとって、だれにも勝る師であり主であるイエスが、犯罪人のように扱われ、裁きを受け殺されるなど、とても考えられないことでした。ペトロは言います、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(22)と。

 それに対して主イエスは言われます、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(23)と。厳しい言葉です。最も信頼を寄せた弟子に対する、一切の斟酌を交えない、激しい叱責の言葉と言ってよいでしょう。人間の思い、人情としては、実によくわかる反応です。しかし、神のもとから遣わされ、大きな使命を携えてこられたイエスにとって、これはまさに放置できない態度です。自分が歩む道に妨げを置く、躓きの石を置く行為です。

 わたしたちも、それと意識せずに、主が歩もうとされる道に妨げを置き、常識ですべて解決しようとしているかもしれません。想定されるすべての危険を退け、社会の動きにだけ目を向け、主が何を望まれるのか、どこへ進もうとされるのか、考えもせずに、狭い料簡で、小さくまとまってしまっていることはないでしょうか。

 さらに主は言われます「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(24)と。はたして、イエスは、あのローマ帝国が平和を脅かす犯罪人に負わせた忌まわしい刑具を、ご自分が担われる前に、弟子に負わせることを見越しておられたのでしょうか。もしそうであったとすれば、これも弟子たちにとって大きな衝撃であったに違いありません。しかし、イエスは、それがイエスに従う者、イエスのお供をするものが歩まなければならない道であることを教えられたのです。

 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(25)。最後に、イエスに従おうとする者が身につけなければならない根本的な真理が語られます。それは、ひと言でいえば、逆説に生きるということです。人間的な思い、常識、小賢しい知恵、それらを捨てて、神の知恵、神の愛、神の力に己をゆだねて生きること。しかし、それは、人間にとって、何と難しいことでしょうか。人間は、幼い頃から教えられます。大人になるため、成長するため、知識を増やし、考える力を養い、自分で判断し、自分で選択・決定すること、まさに、自分の人生を自分の力で生きるようにと教えられます。しかし、信仰に生きること、イエスに従って生きることは、まさに、それを否定することを人間に求めるのです。自分を捨てること、自分の力、自分の知恵に固執することを捨てて、はじめて神の世界に生きることが可能になり、そこにこそ、人間の真の幸せがあることを、主イエスは自らの生き方を通して、そして十字架の死を通して、教えられたのです。その逆説を、生きるためには、繰り返し、主の招きに応え、自分の持てるものを手放し、弱さ・小ささ・みじめさの中に、主が大いなる力をもって働くことを信じ、それを体得する以外にないのです。(S.T.)

???? 他の分かち合い

 今日の福音の中には、次のような言葉が書いてあります。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタイ16:26)。このみ言葉は聖フランシスコ・ザビエルに大きな影響を与えました。だから、皆さんは唐戸にある聖フランシスコ・ザビエルの記念碑に行ったら、このみ言葉をすぐ見つけるでしょう。ザビエルはパリで勉強したとき、イグナチオ・ロヨラに出会って、彼に何回もこのみ言葉を聞かせられていました。それで、回心の恵みを受けて、イグナチオ・ロヨラと同伴者になりながら主イエスに従うことを決心しました。さらに、日本まで宣教に来てくださいました。私たちも今日、聖フランシスコ・ザビエルが聞いたみ言葉を同じように聞いています。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」。この呼びかけに応答する同時に、日々十字架を背負って主イエスに従い、神の愛と救いを宣べ伝えていくことができますように、このミサを捧げてまいりましょう。

 先週の福音は、ペトロが主イエスに「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰を告白しました。続いて、今日の個所は「受難と復活の予告」の場面を語っています。信仰告白をしたペトロは主イエスから祝福され、特別な使命を与えられていました。しかし、今日の箇所で同じペトロがすぐに厳しく叱責されてしまいました。

  確かに、その時、弟子たちは主イエスの受難予告を理解できませんでした。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」というペトロの言葉は、主イエスの身を案じての言葉だったのでしょう。すなわち、弟子たちは、メシアという者は地上で栄光に輝き、勝利を収めるメシアと人間の立場から思ったのです。神の計画における本当のメシアの姿にはまだ分かりませんでした。それで、主イエスはペトロに向かって「サタン、引き下がれ」と言います。これは荒れ野の誘惑の場面で語られた「退け、サタン」(マタイ4:10)を思わせるような厳しい言い方です。サタンとは人を神から引き離す力のシンボルです。「あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。今もわたしたちを神から引き離そうとする力が働いていると感じることがあるのではないでしょうか。

 ペトロはかわいそうですが、彼のおかげで、私たちは改めて主イエスの後ろを従うべき、自分の十字架を背負って主イエスに従うべき、神のみ旨をよく調べ、それによく応える必要があります。やはり、どんな生活でも、十字架があります。この十字架は、何よりも神の思いに従うために自分の思い、人間の思いを捨てることだと思います。あるいは、避けることのできない自分の苦しみを、ある時、十字架だと受け止めることができて、だからそれを耐え、乗り越えることができたというような体験もあるかもしれません。

 「自分を捨て、十字架を背負って、従いなさい」という使命は、弟子のとるべき態度を明らかにしています。ここではまた、聖フランシスコ・ザビエルが大きな影響を受けたみ言葉「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と思い出しています。自分を捨てる時、主イエスに従おとするならば、永遠のいのちに与えられるのです。人間は、「神のことを思う」か、「人間のことを思う」か、どちらかを選ばねばなりません。「神のことを思う」人が、自分を捨てて十字架を背負うとき、「いのち」への道は開かれています。

年間二十二主日(8月30)
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