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教皇の意向:希望の巡礼者 (12月)

年間第十六主日(A年)

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両方とも育つままにしておきなさい。

マタイ13:30
集会祈願

全てに心を配られる神よ、あなたは世界に良い種を蒔き、その成長を慈しみと忍耐をもって見守っておられます。ここに集う私たちが互いに愛し合い、神の心にかなう者として成長することができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

🌸 第一朗読 (知恵12:13、16-19)

知恵の書

〔主よ、〕
すべてに心を配る神はあなた以外におられない。
だから、不正な裁きはしなかったと、
証言なさる必要はない。
16あなたの力は正義の源、
あなたは万物を支配することによって、
すべてをいとおしむ方となられる。
17あなたの全き権能を信じない者に
あなたは御力を示され、
知りつつ挑む者の高慢をとがめられる。
18力を駆使されるあなたは、寛容をもって裁き、
大いなる慈悲をもってわたしたちを治められる。
力を用いるのはいつでもお望みのまま。

19神に従う人は人間への愛を持つべきことを、
あなたはこれらの業を通して御民に教えられた。
こうして御民に希望を抱かせ、
罪からの回心をお与えになった。

🌸 答唱詩編 詩編86 典138①②③

答:すべての人の救いを願い、
  わたしはあなたを待ち望む。

神よ、あなたは恵み深く、心の広い方。
あなたに助けを求める人に、
慈しみを注がれる。
神よ、わたしの祈りを聞き、
願いの声に耳を傾けてください。 【答】

神よ、あなたに造られた諸国の民はみな、
み前に進み、ひれ伏してあなたの名をたたえる。
あなたは偉大、不思議なわざを行われる方。
あなたのほかに神はない。 【答】

神よ、あなたは憐みに満ち、恵み深い方。
怒るに遅く、
慈しみとまことにあふれておられる。
あなたのしもべに力を授け、
あなたに仕える者を救ってください。 【答】

🌸 第二朗読 (ローマ8:26-27)

使徒パウロのローマの教会への手紙

 〔皆さん、「霊」は〕弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 27人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

アレルヤ唱 典272(16A) マタイ11:25参照

アレルヤ、アレルヤ。天と地の主である父はたたえられますように。あなたは神の国のことを小さい人々に現してくださった。アレルヤ、アレルヤ。

🌸 福音朗読 (マタイ13:24-43)

マタイによる福音

 〔その時、〕イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。 25人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。 26芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。 27僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』 28主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、 29主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 30刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

 31イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、 32どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
 33また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

 34イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。 35それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 「わたしは口を開いてたとえを用い、
 天地創造の時から隠されていたことを告げる。」

 36それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。 37イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、 38畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。 39毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 40だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。 41人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、 42燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。 43そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

奉納祈願

慈しみ深い神よ、あなたの言葉に触れ、心を新たにしてこの供え物を捧げます。主キリストの記念を行う私たちが、あなたの国のために働くものとなることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

拝領祈願

恵みあふれる父よ、あなたはキリストのうちに私たちを一つにしてくださいました。私たちが互いの過ちに目を留めるのではなく、今の世に働くあなたの愛に目を向けることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

🌸 分かち合い

 長い梅雨もいよいよ終わり、ようやく夏が近づいた気配を感じます。細江では、幼稚園も夏休みに入り、少し静かな日が多くなりました。幼稚園の玄関前には、プランターにトマトやキュウリの苗が植えられ、毎朝、子どもたちと成長を楽しみにしてきました。しかし、いつからか、葉が枯れたようになり、実った実も、もう一つ元気がなく、食べられるような姿になりませんでした。子どもたちは、葉についたテントウムシのような虫の動きに見入っていましたが、よく見ると、それは赤と黒の鮮やかな色をしたテントウムシではなく、色あせた褐色のテントウムシダマシだということがわかりました。これは、テントウムシと違い、野菜の葉を食べてしまう害虫に指定されています。農薬を一切散布しなかったせいで繁殖してしまったのでしょう。

 今日の福音は、神の国のたとえの続きで、「毒麦のたとえ」と言われています。毒麦は、麦と一緒に生えてくるもので、若いときは、麦と区別がつかないものですが、大きくなると次第にその違いが見え、収穫の前には、抜いてしまいます。毒麦を食べると、その毒性で吐き気を催したり、めまいがしたりするそうです。たとえでは、毒麦の存在に気付いた僕が主人に、「毒麦を抜き集めておきましょう」と提案しますが、主人は言います、「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と。

 これは、良かれと思って、人間が考え行うことと、神様の思いの違いを表すたとえです。人間は、人を見ると、善い人、悪い人、信頼できる人、そうでない人、と人を区別し、レッテルを貼り、決めつけてしまいがちです。一度そのようなレッテルを貼ると、容易にそれを変更することをしません。正しい教えを守ろうとして、絶対に考えを変えない人、逆に、新しい考えにすぐに飛びつき、古い教えを安易に捨ててしまう人。明らかに間違った主張をし、行動に走り、全体に悪影響を及ぼす人、反対に、相手をさばき、断罪し、排除する人、そうした対立は、どんな組織にもあり、衝突を引き起こします。教会の中にもあり、教会の歴史を色濃く染めています。それは、決して昔のことではなく、現代にも、様々なレベルで起きています。

 時代が大きく変わるときには、必ずそのような対立や衝突が生じます。今は当然のように思っている、第二バチカン公会議の開催と、それ以後の教会は、聖霊の素晴らしい働きの結果だと理解しますが、中には、あれ以来、カトリック教会はおかしくなった、それ以前の教会に戻らなければならない、と公然と主張する人がいます。フランシスコ教皇も、就任以来、次々と新しい路線を打ち出し、自ら、言葉だけでなく、行動をもって示そうとされます。しかし、それに対する根強い反発も教会の中にはある、と聞きます。フランシスコ教皇は、第二バチカン公会議後の南米(アルゼンチン)で急激な改革を訴えるグループと保守的なグループの間の対立が大きくなったとき、ご自身、その渦中に置かれ、大変な苦しみを経験された方です。しかし、教皇は、深い祈りの中で確信された神のみ旨を恐れることなく実行して、貧しい人々のために働かれました。

 イスラエルの歴史を学び、その中に働く神の知恵を学んだ、第一朗読「知恵の書」の著者は、こう言います、「あなたは万物を支配することによって、すべてをいとおしむ方となられる。・・・力を駆使されるあなたは、寛容をもって裁き、大いなる慈悲をもってわたしたちを治められる。・・・神に従う人は人間への愛を持つべきことを、これらの業を通して御民に教えられた」(知12.16,18,19)と。人間は、時に、神以上に人を厳しく裁くことを戒めた言葉ではないでしょうか。少し前には、こんな言葉もみられます、「全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。あなたは存在するすべてのものを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない」(同11.23,24)と。そのような神の愛に学ばなければなりません。
 当然疑問が生じます。それでは、人間の悪や不正はどうなるのか。放置すれば、世界は無秩序になるではないか。悪に対しては、それなりの罰が、制裁が必要ではないか。これは、まさに現代世界の問題。国家間の緊張の根本にある問題です。死刑の問題にもつながります。簡単な答えはありません。神の意志が何か、絶えず祈り求めることが必要です。人間が作り上げた基準ではなく、神の基準が何か、常に、それを見極める力、識別の力、神の霊に祈り求める姿勢が必要なのではないでしょうか。毒麦の存在を許容した主人のように、広い心をもって生き、人々に、対応して行けるよう、特に、人間には、いつまでも回心する可能性があることを信じ、最終的な判断を神に委ねる恵みを祈りましょう。(S.T.)

🌸 その他の分かち合い

 皆さん、今週の福音はマタイによる福音書13章が読み続いています。この章では、「天の国」を教えるたとえ話が七つ集められており、これらは三つのグループに分けられています(1-13節、24-43節、44-52節)。それは三週間(先週、今週と来週)連続して読まれています。先週の個所、種まきのたとえ話では、天の国の秘密を悟ることを許されている弟子たちを励ます宣教者、主イエスの姿がその中心にありました。ところが、今週の福音では、「天の国」が実現していく過程を明らかにすることに関心が向けられています。皆さん、神の国を目指して、どういうふうに実現していくのでしょうか。それは、人間の力ではなく、神の力で神の国は成長していく、そこに信頼と希望をおくときに、わたしたちの日々の小さな努力が支えられているのです。このことを深く感じることができますように、このミサを捧げてまいりましょう。

 皆さん、今日の福音は「毒麦」、「からし種」と「パン種」という三つのたとえ話を語っています。私は「毒麦」のたとえ話だけについて分かち合わせていただきます。他のたとえ話は、皆さんがご自分で読んで黙想していただければ幸いです。

 さて、毒麦のたとえ話だと言われていますが、この福音の個所は毒麦という悪い者を中心とするではなく、むしろ神の愛と忍耐力強い心のほうを強調するではないかと思います。やはり、社会の中に、教会の中に、我々の間には良い者と悪い者両方ともあります。主イエスがこの世に来たのは良い者ばかりを救うだけでなく、悪いものをも救おうとするのです。同じように神は悪い者にも良い者にも雨を降らせているという愛広くていつくしみ深い方です。

 毒麦という悪い者たちをそのまま置いておく理由は、彼らがいつか悔い改めるようになるということを神は待っているのでしょう。神は悪い者、罪びとの回心を望んでおられます。私たちの回心を待ってくださいます。主イエスが最初に宣教に行かれた時、人々に悔い改めを呼び掛けていました。神の国が近づいて、悔い改めて福音を信じなさいという神のお招きです。神の国に入るために、悔い改める必要があるということです。

 毒麦の周りに良い麦があります。良い麦の隣に毒麦があります。毒麦という悪い者が回心するまで、良い麦というよい者は神の恵みによって神の愛、神の深い慈しみを見せなければなりません。一方、悪い者はそのよいわざを見たら、回心しなければなりません。これはダイナミック的に生きている私たちの生活です。

 従って、お互いに協力して助け合って信仰生活を深めていくのです。そして神の力に信頼と希望を置くならば、「神の国」が近づいてくること、それが日々信仰生活の中で実現していくこと、また成長していくことを、感じることができるでしょう。それで、人生が変わっていくことができる、また主イエスの弟子への道を歩むことができるのです。

 どうか神の愛と慈しみ、主イエスの救いの業を感謝しながら日々生活の中で、少しずつ回心していくことができますように、すなわち神の国を少しずつ気づいて、そこに入ることができますように神の導きをお願い求めましょう。

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

3 comments

  1. 本日福音のマタイ13章の特に41節。

    人々を罪へと導くものすべてと不法を行う者どもを、
    天使たちを遣わして燃え盛る炉の中へ投げ込まれる
    とある。
    だからこそ、これらの毒麦は、そのままにしておく、放っておけばよい、と。
    これだけ字面だけ読むとやさしそうだが、善悪の判断能力を放棄し時の空気に従うことをよしとする日本人の中では大変なことだ。
    家庭や地域が毒麦だらけだから。
    明日2023年7月24日月曜日の福音(マタイ12章38節から43節)にも関連するが、日本人には悔い改めと真理への勇気が欠如している。これは、狭義のカトリック教会も同様で、過去の聖人を記念して現代の聖人たちを迫害している。まあ、イエスさまも同じことをファリサイ派に言って嘆いておられるが。
    ほとんど明日の福音だが、
    ニネベの人たちのように告解とミサに与り、南の国の女王のように講座や黙想会に通っていた頃、当時の師であるイエズス会士たちは、私を人々を罪へと導く者どもや不法を行う者どもから守ってくれた。
    守ってくれる、とは、ボディーガードのイメージとは、ちょっと違う。
    要は、識別力をつけてくれる、ということだ。
    まさに、人々を罪へ導く者どもや不法を行う者どもを、かなり前もって察知し
    「はっきりと避けること!失礼にならない!」

    私も含め極東のバカ息子たちは、すぐ失礼だ!とか空気読め!とか形式的儀礼的が素敵だと思い込んでいる。

    いちいちここに書くのも馬鹿馬鹿しく、悲しくしく?!なってきた。

    ぼくも含め極東の馬鹿者どもよ!
    もうぼつぼつ、馬鹿卒業しようぜ!
    アーメン!

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    • はっきりしている!
      未だ、私の留守中に拉致された母は戻って来ない。地域ぐるみ犯罪の標的にされている。
      悪に染まった日本国。今日の福音が言う、敵国。悪霊に支配された国。

      さらし者にされている、殺された父も拉致された母も、そして私も。
      洗礼を魔術と同視している愚かな日本の人々。「神の子なら自分を救ってみろ」と(マタイ27章40節。4章3節以下)。
      時間と空間を超え、よい人とともにいること。
      十字架の上にともにとどまること。
      霊的連帯。

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  2. 自省を込めて毒麦の話を読んだ。

    キリスト自身が弟子にはっきり言っている通り毒麦とは、悪魔がまいた悪い者の子ら。とすれば、人間の手に負えるものではない。

    「悪人に手向かってはならない」マタイ5章39節
    悪の火に油を注ぐことになり収拾がつかなくなる。
    今の自分の情況がそうだ。ここまで陰に陽に悪事を行う悪人に包囲されているとは気づかなかった。
    悪人に注意していた自分の愚かさに気づいた。
    とにかく悪い者の子らは、そのままにして「自分のことに気をつけている」ことだ。マルコ13章9節

    キリストの洗礼を受けたのはキリストの死にあやかり復活の命に生きるため。
    悪い者の子ら不法を行う者どもに犯罪者扱いされて処刑される覚悟で、日々、十字架を背負って生きる力を神に祈り求めたい。
    アーメン。

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