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マルタが、イエスを家に迎え入れた

ルカ10:38
集会祈願

🌸 第一朗読 (創世記18:1-10a)

 〔その日、〕主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。 2目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、 3言った。
 「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。 4水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。 5何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」
 その人たちは言った。
 「では、お言葉どおりにしましょう。」
 6アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。
 「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」
 7アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。 8アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。
 9彼らはアブラハムに尋ねた。
 「あなたの妻のサラはどこにいますか。」
 「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、 10彼らの一人が言った。
 「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」

🌸 答唱詩編 詩編15 典101①②

🌸 第二朗読 (コロサイ1:24-28)

使徒パウロのコロサイの教会への手紙

 〔皆さん、〕今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。 25神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。 26世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。 27この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。 28このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。

アレルヤ唱 典272(16C)

🌸 福音朗読 (ルカ10:38-42)

ルカによる福音

 〔そのとき、〕イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。 39彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 40マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 41主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 42しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 ルカ福音書には、ルカだけが伝える珠玉のような物語がいくつもある。先週の善いサマリア人のたとえもそうだが、今日のマルタとマリアの話も同様。
 このマルタとマリアの姉妹は、対照的で、だれもが、自分を同化できるようなタイプ。簡単にマルタを活動的、社交的、マリアは反対に観想的、内向的と決めつけてみたくなる。実際、修道会にも、活動修道会があり、観想修道会がある。どちらが優れていると、簡単に決めつけることはできない。

 人間の生き方として、じっと静かにしているよりも、忙しく立ち働く方が性に合った人がいる。かつての日本の主婦のように、客が来れば、すぐにお茶や、食事を準備しに台所に行く。そちらに専念するあまり、客への応対を忘れてしまうこともある。そうかと思えば、客とのおしゃべりに時間も忘れ、水一杯出すこともしない人もいる。

 マルタとマリアの話で、忙しく立ち働き、手伝おうともしないマリアに不快感を示すマルタを、主イエスは、やさしくたしなめる。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している、」と。マリアはマルタのことを意に介さず、イエスの足もとに座って、その話にじっと耳を傾ける。この二人の姉妹を通して、イエスは何を教えようとされたのだろうか。

 第一朗読の創世記の中で、アブラハムが客人をもてなす話が読まれた。アブラハムは、旅に疲れた客人に水を飲ませ、足を洗い、食事の準備までする。「客が食事をしている間、立って給仕をした、」とまで書いてある。しかし、アブラハムは、単なるもてなしだけでなく、客人が携えた大事なメッセージをしっかり受け止める。「来年の今頃、また来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう、」と。この客人は、神の使い、否、神ご自身だった。

 日本語には、「もてなし」という素晴らしい言葉がある。コロナ禍の前に、日本にやってくる外国人が急速に増加したこともあって、よく聞かれるようになった。しかし、本当のもてなしとは、どういうことなのだろうか

 イエスは、人々との出会いを大切にされた。そして、ファリサイ派の人々から非難されるほど、人々と食事をとることを楽しみとされた。それは、相手のもてなしに応ずるだけでなく、相手とともにいる時を大切にされたからではないか。
 わたしたちが与かるミサは、イエスが弟子たちと共にされた最後の晩餐を記念するもので、イエスが教会に残された素晴らしい恵みである。祭壇は献げ物を備える台であると同時に、会食のテーブルをも意味する。イエスは、かつて人々を癒し、養われたように、教会に集う人々をみ言葉と聖体でもてなしてくださる。

 もてなしは、客人の体を癒し、養うと同時に、相手に心を開き、交わりの時をもつことでもある。時に、病気の方を前にしたときのように、もはや体を癒し、養うことができない、さらには、障害をもった方や高齢者のように、言葉で交流をもつことが難しいこともある。イエス自身、十字架上で、そのような無力なもの、何のもてなしもできない存在となられた。それでも、そこにいること、共にいることはできるし、それしかできないときもある。マリアは、そのようなもてなしの模範を示されたのかもしれない。

 静かな、ひとえに聞き従うことに徹したマリアと、ぬかりなくもてなしの業を果たそうと努めたマルタ、二人の心を併せ持つことができるよう、アブラハムの模範を仰ぎながら、主に祈ろう。(S.T.)

年間第十六主日C(7/17)
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One thought on “年間第十六主日C(7/17)

  • 7月 12, 2022 at 7:01 am
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    誰よりも安全保障や危機管理を主張していた元首相の暗殺は、にわかに信じがたく、演出された訓練ではないかと当局に問い合わせ、真実であると確認すると、二度とこのようなことがあってはならないと関係各局に電話をしまくっていた。
     私に公約通りの賃金を払ってくれた政党は、たった一人の国会議員が当選したが、その事務所に電話をした時、戦争・死刑・墮胎、、、によって奪われる人の命も神の前に等しく大切であるという当然のことに気づいた。
    私はついセンセーショナルなことに目と心を奪われてしまうところがある。
    実はまだ火曜日の朝だが心は主日の福音を求めた。ああ!何度も目にしている箇所なのに。
    すべての命の源、神であり主であるイエスに常に立ち帰り、一致できますように!!

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