♰ キリストにおいてすべてを新しく見る ♰

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教皇の意向:修道士・修道女と神学生の養成 (5月)

年間第十一木曜日(6/22)

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天におられるわたしたちの父よ

マタイ6:9
集会祈願

🌸 第一朗読 (二コリント11.1-11)

 1〔皆さん、〕わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています。 2あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。 3ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。 4なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。 5あの大使徒たちと比べて、わたしは少しも引けは取らないと思う。 6たとえ、話し振りは素人でも、知識はそうではない。そして、わたしたちはあらゆる点あらゆる面で、このことをあなたがたに示してきました。
 7それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。 8わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました。 9あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです。そして、わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。 10わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません。 11なぜだろうか。わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存じです。

🌸 答唱詩編 詩編111 典61 ①③

アレルヤ唱 典269 37

🌸 福音朗読 (マタイ6.7-15)

マタイによる福音
 7〔その時、イエスは弟子たちに言われた。〕あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。 8彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。 9だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
10御国が来ますように。
御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。
11わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
12わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
13わたしたちを誘惑に遭わせず、
悪い者から救ってください。』
14もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。 15しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 「主の祈り」には、キリスト教の神髄がある、と言われた方がいた。突然、目が開かれたような思いがしたのを覚えている。毎日、お決まりのようにそれを唱える時に、どれだけそれを意識しているだろうか。

 この祈りは、突然、イエスの口から出たものではない。そこには、長く、苦しみに満ちた「神の民」の歴史が刻まれている。そして、それを唱える人々によって、さらに、豊かな祈りとして、今日まで伝えられてきたに違いない。

 「神」という近づきがたい存在に向かって、まるで、日々顔を合わせる肉親のように、親しく呼びかけることを教えられた民がほかにあるだろうか。そして、イエスは、その方を「父」と呼ぶことをはばからなかった。それは、御自分にとって「父」であり、愛する人々にとって「父」であることを信じて疑わなかったからである。しかも、それが、自分たち同士の関係がどうであろうとも、皆の共通の「父」であることを教えるために、「わたしたちの」という言葉を添えられる。

 人が祈る時、そこには、何らかの願いがあり、望みがある。それは、多分に自分中心のものである。しかし、この祈りが教えるのは、自分の願いよりも、まずは、父なる神の願いの成就である。そして、それこそが、祈りの前提、さらには、本質と言うべきかもしれない。それがあって始めて、自分の願いを披歴することが許される。しかも、そこに欠かすことが出来ないのは、「ゆるし」を求める姿勢である。言い換えれば、自分の醜さ、罪深さの自覚である。それがあって、はじめて祈りが真実の祈りになる。そんな祈りは、「主の祈り」をおいて、ほかに存在するだろうか。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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