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教皇の意向:使命を担い合う (10月)

年間第二十二土曜日(9/9)

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人の子は安息日の主である

ルカ6:5
集会祈願

🌸 第一朗読 (コロサイ1.21-23)

 21〔皆さん、〕あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。 22しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。 23ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。

🌸 答唱詩編 詩編54 典8 ①②

アレルヤ唱 典269 ㊼

🌸 福音朗読 (ルカ6.1-5)

ルカによる福音

 1ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。 2ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。 3イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。 4神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」 5そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 安息日の掟はユダヤ人が命がけで守って来た定めであるが、それは人類の大いなる知恵、知的遺産と言ってもよいのではないか。キリスト教は、安息日に代えて、「主の日」を守るようになったが、安息日が目指していた意義は、決して消滅したものではない。はたして、キリスト者は、そのことを認識しているだろうか。
 安息日は、単に体を休める日、「休日」ではない。体を休め、仕事の手を休めることで、人間存在の原点―どこから来て、どこへ行くかーに立ち戻ることを意図して定められた掟である。人間は、神によって造られた者であり(『出エジプト記』に記された安息日の掟の説明)、さらに、神によって救われた者(『申命記』が加えた掟の意味)である。その日を守り、その意味を味わうことで、人間は、生きる意味を知り、どんな状況の中でも、光と希望をもって生きてきたのである。
 キリスト教は、ユダヤ人が記念してきた過ぎ越し(出エジプトの出来事)の意味に加えて、キリストの死と復活の記念を新たな過ぎ越しとして祝うことになった。キリストの十字架において、一層明らかになった神の限りない愛の中に、生きる意味と希望を見出す恵みを受けたのだが、はたして、どれだけそれを意識しているだろうか。     イエスに対峙したユダヤ人が、あまりにも狭く、頑なに安息日を守り、それを彼らの期待する形で守らなかったイエスの姿勢に厳しい批判を浴びせたユダヤ人に対する思いから、安息日の意義そのものを忘れ去ってきたかもしれない。
 あらためて、安息日の意味を味わう恵みを祈ろう。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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