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教皇の意向:使命を担い合う (10月)

年間第二十三金曜日(9/10)

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まず自分の目から丸太を取り除け

ルカ6:42

日本二百五福者殉教者

集会祈願

🌸 第一朗読 (一テモテ1.1-2、12-14)

 1わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、 2信仰によるまことの子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。
 12わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。 13以前、わたしは神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。 14そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。

🌸 答唱詩編 詩編16 典98 ①②

アレルヤ唱 典268 ⑲

🌸 福音朗読 (ルカ6.39-42)

ルカによる福音
 39〔そのとき、イエスは弟子たちに〕たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。 40弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。 41あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 42自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 「日本には1862年に列聖された日本26聖人殉教者と1987年に列聖された16人の殉教者(聖トマス西と15殉教者)がいて、合わせて42人の聖人がいる。そのほかに1867年には、205人が福者(日本205福者殉教者)として祭壇に上げられている。日本の教会はキリシタン時代から、殉教者については関心が高く、早くから列福のための準備を始めていた。1600年に入って間もなく、殉教者についての証言を集める作業を行っている。」(溝部脩司教による)

 長崎の二六聖人を知らない人は少ないけれども、今日記念される人びとが、日本の無数の殉教の先駆者であり、代表者であることを知らない人は、案外に多いようです。

 二六聖人の殉教の前の時代に、いろいろなところで、信者になってさほどの年月もたたないうちに、かなりの人びとが自らの血によって信仰のあかしをしました。その後、徳川時代から明治維新までの間に、はっきりしているだけでも約四千人の殉教が記録されています。それ以外に、島原の乱の原城降伏の後、信仰を捨てなかった約一万七千人もの女性と子どもが殉教しました。

 教会は、これら幾多の殉教者たちの代表に、特別に江戸時代初期の二〇五人を選んで、福者として崇めています。

 その内訳は、日本人が一五二人、ヨーロッパ人が四七人、韓国人が七人、インド人とメキシコ人が各一人で、女性が十四人(そのうちの五人は、夫婦いっしょでした)、少なくとも六人は子どもというように国籍や年齢だけでなく、場所も長崎から仙台までと、さまざまです。 修道会も、イエズス会にフランシスコ会、ドミニコ会にアウグスチノ会、それに教区司祭と、さまざまでした。

 信者も、幕府の有力者であった原主水をはじめ士農工商のあらゆる階層にわたり、その中には、死刑を覚悟で、神父や同塾と呼ばれていたカテキスタを自分の家にかくまった者が多くいました。

 処刑の方法もさまざまで、打ち首、はりつけ、火あぶり、それに苦痛を極めた穴吊しと雲仙の熱湯刑がありました。この非人道的な迫害と処刑に際して、非常に顕著なのは、殉教者たちの超自然的な勇気と愛、迫害する者への赦しであります。

 「信仰を捨てる」の一言で自分の生命を救うことができるのに、命をかけて信仰を守り抜き、拷問を加える相手を赦しながら、天国への希望に顔を輝かせて殉教しました。彼らは、自分のために苦しみ死んでくださったキリストのために苦しみ死ぬのは当然だ、と思っていたのです。

 いろいろな日、さまざまな場所で殉教した人びとを、今日、一緒に記念するのは、徳川秀忠の時代の九月十日に、長崎の西坂で、宣教師、それに女性と子どもを含めて総勢五五人もが一度に処刑される大殉教があったからです。誠に、殉教者の血は信者の種です。これら殉教者の血こそ、未来の日本の教会の大きな希望であります。

 殉教者が血を流して守り伝えた信仰を持つ私たちが、先祖に恥じない信者になる恵みを願いましょう。

(C.バリョヌェボ著『ミサの前に読む聖人伝』サンパウロ、2010年。)

🌸 分かち合い2

 今日の典礼はキリスト教的な隣人愛のために自分自身をよく知る必要があるというテーマについて私たちに教えてくださいます。読まれたルカ福音書6章39節から42節は先週の福音の個所に続いています。昨日の箇所で主イエスは「敵を愛しなさい」「人を裁くな」という弟子たちの生き方の中心にあるものをはっきりと示しました。その教えに続き、今日の箇所でも弟子たちの生き方について教えています。特に他者を愛することができるために、まず自分自身のことをよく知ってくださいという主イエスのお招きです。そういう風に私たちは今日の福音書を読み取ることができると思います。

 私たちは自分自身に対してどの側面を知らなければならないでしょうか。

 ここでは、盲目のことを注目していきたいと思います。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか」(39節)。同じ言葉を、マタイ福音書(15:14)も語っています。しかし、マタイの箇所で言う「盲人たち」とはファリサイ派の人々のことです。どうして主イエスはファリサイ派の人々を盲人としてたとえますかといいますと、主イエスにとって彼らは父である神に遣わされた御子のわざを認めない、人間のおきてを固く守っていたが救い主である主イエスを通して神のいつくしみと愛を見ていない、心の頑固があるからです。

 それがルカ福音書では弟子たちに対する警告として用いられています。主イエスの弟子である私たちもファリサイ派の人々のように度々日々生活の中で神の働き、神の憐みといつくしみが見えないのです。そして、他者のことに対してよく批判したり文句を言ったりしている一方自らの弱さ、自分自身が罪びとであることを認めていません。「兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」という言葉は私が祈ったときに本当に反省させられた問いかけです。

 やはり、私たちは時々隣人愛に対して盲人のようになってしまったことがあります。また、度々神のいつくしみに対して盲人のようになってしまったこともあります。だから、謙遜な心をもって、自分自身の弱さと罪を認め、神よ、私の目を開いてください、私の目の中の丸太を除いてください、そうすると私はあなたのいつくしみを見ることができ、そのいつくしみの目で他者を愛することができますようにという風に毎日祈る必要があるではないかと思います。

 どうか主イエスのお助けによって、愛のおきてを果たすことができますように、聖霊の導きをお願いしましょう。聖霊の導きによって、私たちは自分自身のことをよく知り、主イエスのようにいつくしみ深い目で兄弟姉妹を愛しあうことができるでしょう。

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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