6月11日 聖バルナバ使徒 - 記念日
イエズスに選ばれた十二人の使徒の中には入っていませんが、十二人の布教に匹敵する活動によって、バルナバは使徒と呼ばれています。
使徒行録四章三六節によると、バルナバは持っていた畑を売り、その代金を貧しい人びとに与えるために使徒たちにささげたと書かれています。もちろんこのような信者は他にもいたと思われますが、バルナバの名前だけがあげられるのは、恐らく畑の代金が特別高かったからではないかと考えられます。また、バルナバという名は確かに使徒たちが授けた名前であると書いてあり、バルナバの意味は「慰めの子」、すなわち、慰めと励ましの特別な能力を持つ者ということでした。
バルナバは、地中海の島キプロスに生まれましたが、イスラエル人でレビ族でした。いつ信者になったのかはわかりませんが、イエズスの七二人の弟子の一人だったという説もあります。バルナバの非常に画期的な活動は、西暦三九年頃でした。聖パウロがキリストの迫害者から熱心な信者に回心してエルサレムに行った時、信者たちはだれもみな怪しんで相手にしませんでした。
しかしバルナバは、パウロを信じて使徒たちのところに連れて行き、彼がダマスコへの途中キリストに出会い、回心したということを物語りました(使徒9:9)。どうしてバルナバがパウロを知ったのかは明らかではありませんが、二人ともガマリエルの弟子だったという説もあります。
その後、アンティオキアで信者たちが増え、使徒たちは新しい信者たちを指導するために、「りっぱで聖霊と信仰に満ちた人」として、バルナバの派遣を決めました。バルナバは、パウロを彼が生まれた町まで行って捜し出し、協力者としました。二人はアンティオキアで一年間働いて、大勢の人にキリストを信じるよう指導しました。そこで初めて、信者たちはキリスト者と呼ばれるようになりました。(使徒1:9)。
バルナバとパウロは、飢餓に苦しむユダヤの信者たちのところへ救援の寄付金を届け、再びアンティオキアに帰って聖霊のお告げを受けました。そこでバルナバは、パウロとともに再び布教の旅を始めました。キプロスを通り、大陸に帰ってルステラ(今のトルコ)という町に来た時、そこで生まれつき足の悪い人を治しました。群衆は、「神が人間に姿をかえてわれわれのところに下りてこられた」と叫んで、語り手であったパウロをヘルメス(雄弁の神)、威厳に包まれたバルナバをゼウス (最高の神)として礼拝しようとしたので、驚いた二人はこれをやめさせました。しかしそのあと他の町のユダヤ人たちがやって来ると、どう心変わりしたのか、今度は群衆は石を投げつけ、パウロを半殺しの目にあわせました。二人は、さらに布教の旅を続けながらアンティオキアに帰り、エルサレムの公会議に参加しました。彼らがもう一度布教の途につこうとした時、マルコを連れて行くかどうかで論争となり、バルナバはパウロと別れて、従兄弟のマルコとともに生まれ故郷のキプロスに赴きました。
その後のバルナバについては、確実なことは何一つわかっていません。ただコリント人への第一の手紙が書かれた頃には(五六~五七年)、パウロのことばによって、バルナバがパウロと同じく献身的な布教を続けていたことがわかります(Iコリ9:6参照)。そして二人が仲直りしていたことも想像できるのです。
テルトゥリアヌスによれば、『ヘブライ人への手紙』は、パウロの指導のもとでバルナバによって書かれたものだといわれていますが、確かなことではありません。教会の初期には新約聖書の一部分であると思われるほど大事にされた書物『バルナバの手紙』がありますが、その手紙には、著者について何一つ書かれてはいません。現代の学者は、それが非常に古い時代のキリスト教信者の書物であることは認めますが、バルナバの書いたものではないということで一致しています。それでは、なぜ『バルナバの手紙」と呼ばれるようになったのでしょうか。まだだれにもわからないことです。
バルナバの宣言したキリストの福音を、私たちも行ないとことばをもって宣言することができるよう、聖バルナバの取り次ぎを祈りましょう。
C.バリョヌェボ著『ミサの前に読む聖人伝』サンパウロ、2010年。