狭い戸口から入るように努めなさい。
🌸 第一朗読 (ローマ8.26-30)
使徒パウロのローマの教会への手紙
26 〔皆さん、霊は〕弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 27人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。 28神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 29神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。 30神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
🌸 答唱詩編 詩編67 典55 ①②
神のみ旨を行うことは、わたしの心の喜び。
神よ、あわれみと祝福をわたしたちに。
あなたの顔の光をわたしたちの上に照らしてください。
あなたのわざが世界に知られ、
救いがすべての国に知られるように。
諸国の民はあなたをたたえ、
すべての民はあなたを賛美せよ。
すべての国は喜びうたえ。
あなたは民を正しくさばき、諸国の民を導かれる。
アレルヤ唱 典271 ⑥
アレルヤ、アレルヤ。福音によって神は私たちを召し出し、主イエス・キリストの栄光にあずかる者としてくださった。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (ルカ13.22-30)
ルカによる福音
22〔そのとき、〕イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。 23すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。 24「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。 25家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。 26そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。 27しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。 28あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。 29そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。 30そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
🌸 分かち合い
「救われるものは少ないのですか」という問いに対してイエスは、「狭い戸口から入るように努めなさい」と答える。「狭い戸口」とは何を意味するのだろうか。
「戸口」とは、羊が出入りする木戸のような、人目につかない出入口のこと。マタイでは「狭い門」という。もっと立派な門を連想しがちだが、そこから、とんでもない誤解解を生んだのかもしれない。日本では、「狭き門」は、もっぱら、受験戦争の厳しさを表わす言葉ととらえられている。旧約聖書なら、救われる=永遠の命を得るためには、掟を守ること、正しい生き方をすること、神を愛すること、ととらえられていたに違いない。
では、イエスは何を言おうとしたのだろうか。「ご一緒に食べたり飲んだりしました」とか、「広場で教えを受けました」とか言っても、それはイエスが求める答えではない。
イエスの教え、旧約とは違う、イエスの独自性はどこから来るのか。それは、自分が何かをした、掟を守った、神を喜ばせることをした、祈りを欠かさなかった等のことではない。むしろ、自らの小ささ、みじめさ、罪深さを認め、もっぱら、神のあわれみにより頼むこと、あの徴税人の態度。自分の働きではない、他から来る何か。そこにあるとはだれも考えない、神が無償で与える恵み、それをひたすら、へりくだった心で受け入れること、それこそが、救いの本質を示すものではないか。(S.T.)
