信じる人は主の愛のうちに主と共に生きる
🌸 第一朗読 (知恵2・23~3・9)
知恵の書
23神は人間を不滅な者として創造し、
御自分の本性の似姿として造られた。
24悪魔のねたみによって死がこの世に入り、
悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。
1神に従う人の魂は神の手で守られ、
もはやいかなる責め苦も受けることはない。
2愚か者たちの目には彼らは死んだ者と映り、
この世からの旅立ちは災い、
3自分たちからの離別は破滅に見えた。
ところが彼らは平和のうちにいる。
4人間の目には懲らしめを受けたように見えても、
不滅への大いなる希望が彼らにはある。
5わずかな試練を受けた後、豊かな恵みを得る。
神が彼らを試し、
御自分にふさわしい者と判断されたからである。
6るつぼの中の金のように神は彼らをえり分け、
焼き尽くすいけにえの献げ物として
受け入れられた。
7主の訪れのとき、彼らは輝き渡り、
わらを焼く火のように燃え広がる。
8彼らは国々を裁き、人々を治め、
主は永遠に彼らの王となられる。
9主に依り頼む人は真理を悟り、
信じる人は主の愛のうちに主と共に生きる。
主に清められた人々には恵みと憐れみがあり、
主に選ばれた人は主の訪れを受けるからである。
🌸 答唱詩編 詩編34 典128①⑤
主を仰ぎ見て、光を受けよう。主が訪れる人の顔は輝く。
主をたたえよう、
明け暮れ賛美を口にして。
主はわたしたちの口の誇り、
苦しむ時の心の喜び。
主のまなざしは正しい人に、
耳は彼らの叫びに。
主は正しい人の声を聞き、
悩みの中から救ってくださる。
アレルヤ唱 典270(31B)
アレルヤ、アレルヤ。わたしを愛する人はわたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛し、私たちはその人のもとに行く。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (ルカ17・7-10)
ルカによる福音
7あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。 8むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。 9命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 10あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
🌸 分かち合い
畑や野原で終日、働き、疲れ果てて戻ってきた僕を、主人は、夕食の席に着かせて労をねぎらうだろうか。むしろ、すぐに夕食の準備をさせ、給仕をさせるのではないか。なすべきことをして主人に感謝される僕など、どこにいるか。イエスの時代ならともかく、今の時代、そもそも「僕」という言葉自体、時代錯誤もはなはだしい、と思う人もいよう。
しかし、この個所の少し前を読むと、この話はイエスと使徒たちとのやりとりの中の話であることがわかる。「使徒たち」と言えば、誕生した教会の柱、あるいは、高い地位、身分にあることが想定される。その使徒となるべき者に対するイエスの言葉と理解すると、そこには、常識とはまるで違う、新しい見方が含まれていることに気づかされる。
イエスは、弟子たちに対して、いろいろな教えを説かれたが、その中でも、上に立つ者に対して、徹底して「へりくだり」を説かれた。「あなたがたの中で偉くなりたいものは、皆に仕える者、皆の僕になりなさい」(マタイ20.26∼27)と。これがイエスのまったく、新しい考え方だ。そして、それは単なる教えではなく、イエス自ら模範を示して、生きられた姿だ。実際、最後の晩餐の席でイエスは「わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」(ルカ22.24)と言われた。さらに、パウロは言う、「キリストは、神の身分でありながら、・・・僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2.7)と。
主がそのような生き方をされたのなら、主に従う者も同じ生き方を身に着けようとするのは当然ではないか。(S.T.)
