一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある
🌸 第一朗読 (ローマ14.7-12)
使徒パウロのローマの教会への手紙
7〔皆さん、〕わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。 8わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 9キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。 10それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。 11こう書いてあります。
「主は言われる。
『わたしは生きている。
すべてのひざはわたしの前にかがみ、
すべての舌が神をほめたたえる』と。」
12それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。
🌸 答唱詩編 詩編27 典73 ①②
神よ、あなたの顔の光をわたしたちの上に照らしてください。
神はわたしの光、わたしのすくい、
わたしはだれもおそれない。
神はわたしのいのちのとりで、
わたしはだれをはばかろう。
わたしは神に一つのことを願いもとめている。
生涯神の家を住まいとし、
あかつきとともに目ざめ、
神の美しさを仰ぎ見ることを。
アレルヤ唱 典276(諸聖人)
アレルヤ、アレルヤ。労苦して重荷を負っている者はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを回復させよう。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (ルカ15.1-10)
ルカによる福音
1〔そのとき、〕徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを話された。 4「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 7言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
8「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 9そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 10言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
🌸 分かち合い
イエスが語る、神の愛についてのたとえにも、似たようなことが言える。ルカが記すたとえは、「見失った羊」のたとえと言われ、同じ内容を記すマタイ(18.12∼14)では「迷い出た羊」のたとえとされている。「見失った」なら、「見失った」主人に重点があるが、「迷い出た」なら、「迷い出た」羊に責任がある、ととれる。英語でも、lost sheep とstray sheep と訳される。確か、夏目漱石の『三四郎』にはstray sheep の話が出ていた。イザヤ預言書でも、「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(53.6)とある。
神は、そうした自分の責任で迷った者も、ご自分が見失った者として、探し出しに行かれる。神の世界では、「自己責任」という言葉があまり意味を持たない。ファリサイ派の人々や律法の専門家(わたしたちも、そのひとりかもしれない)は、そうした神の心がわからないから、だれにでも近づこうとするイエスの広い愛も理解できないのだろう。
わたしたちも、少しでも、そうした、あわれな状態にある者に向けられる神のいつくしみの心に少しでも近づくことができるよう祈ろう。(S.T.)
