わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている
🌸 第一朗読 (創世記16・1-12、15-16)
創世記
1アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。彼女には、ハガルというエジプト人の女奴隷がいた。2サライはアブラムに言った。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」アブラムは、サライの願いを聞き入れた。3アブラムの妻サライは、エジプト人の女奴隷ハガルを連れて来て、夫アブラムの側女とした。アブラムがカナン地方に住んでから、十年後のことであった。4アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。5サライはアブラムに言った。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。」6アブラムはサライに答えた。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた。7主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、8言った。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」「女主人サライのもとから逃げているところです」と答えると、9主の御使いは言った。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」10主の御使いは更に言った。「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」11主の御使いはまた言った。「今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい主があなたの悩みをお聞きになられたから。12彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす。」
15ハガルはアブラムとの間に男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだ男の子をイシュマエルと名付けた。16ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。
🌸 答唱詩編 詩編112 典90①②
答:しあわせな人、神の恵みを受け、その喜びに生きる人。
しあわせな人、神をおそれ、
そのおきてを喜びとする人。【答】
その子らは地において強くなり、
彼らはとこしえに恵まれる。【答】
アレルヤ唱 典273㊻
アレルヤ、アレルヤ。わたしを愛する人はわたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛し、私たちはその人のもとに行く。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (マタイ7・21-29)
マタイによる福音
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。21「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。22かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。23そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』
24そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。25雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。26わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。27雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
28イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。29彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

🌸 分かち合い
山上の説教の結びの部分。岩の上に家を建てた賢い人のイメージ。集中豪雨で川があふれ、家まで流される映像を見慣れたわたしたちにピンとくるイメージだが、イエスは果たしてそんな光景をご覧になったのか。降水量が極めて少ないパレスティナ地方でも、時に大変な洪水があるらしい。その証拠に、詩編には、「大水」とか、「洪水」といった言葉が出る。
岩の上に家を建てた賢い人とは、「天の父のみ心を行う人」、「わたしの言葉を聞いて行う人」と言われる。聞くだけでなく、実行する人のこと。福音書だけでなく、ヤコブの手紙にも同じ考えが出る、「行いが伴わない信仰は、それだけでは死んだものです」という。(ヤコブ2.17)ユダヤ教から入信した人々が、イエスへの信仰を大切にするあまり、それを行いに表すことをおろそかにしたのだろうか。逆に、主に異邦人の世界で活動したパウロは、律法の行いにこだわるユダヤ教から入信した人々を前にして、「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく信仰による」(ローマ3.28)と言い切っている。律法を知らない、あるいは、守らない異邦人も信仰によって義とされることを強調する。果たして、両者は矛盾するのだろうか。そうではない。パウロは別の手紙に記している、「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラ5.6)と。
イエスの時代にもいたのだろうか、「主よ、主よ」と言い、預言をし、悪霊を追い出し、奇跡を行う人でも、イエスから厳しく宣告を受けるのは、彼らが、「預言者と律法」の中で一番肝心な、愛の実践をおろそかにしたからではないか。(S.T.)