わたしがあなたがたを愛したように、
あなたがたも互いに愛し合いなさい。
🌸 第一朗読 (使徒現行14:21b-27)
使徒たちの宣教
〔その日、パオロとバルナバは、デルベから〕リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、 22弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。 23また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。 24それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、 25ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、 26そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。 27到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。
🌸 答唱詩編 詩編145 典18④⑤⑥
答:いのちあるすべてのものに、主は食物を恵まれる。
あなたは恵みとあわれみに満ち、
怒るにおそく、いつくしみ深い。
その恵みはすべてのものに及び、
いつくしみは造られたすべてのものの上にある。【答】
神よ、造られたすべてのものはあなたをたたえ、
あなたに従う人は感謝して歌う。
彼らはあなたの国の栄光を語り、
力あるあなたのわざを告げる。【答】
あなたの国は永遠の国。
あなたの支配は世々に及ぶ。
神は悩みのうちにある者を支え、
倒れる者をすべて立たせてくださる。【答】
🌸 第二朗読 (黙示録21:1-5a)
ヨハネの黙示
わたし〔ヨハネ〕は、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。 2更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。 3そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 4彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」5すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言〔った。〕
アレルヤ唱 典
アレルヤ、アレルヤ。新しい掟をあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (ヨハネ13:31-33a、34-35)
ヨハネによる福音
さて、ユダが〔晩餐の広間から〕出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。 32神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。 33子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。 34あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 35互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

🌸 分かち合い
復活祭からひと月が過ぎ、もうしばらくすれば、聖霊降臨の主日で復活節が終わり、年間の季節になる。それでも、復活祭のことを過去のこととするのではなく、復活された主が、わたしたちの間に生き、働いておられることを意識し、いわば、復活節の心をもって生きることが求められているのでは。
今日の福音は、最後の晩餐の席で、主イエスが弟子たちの足を洗われた後の説教の一部が読まれた。今日の朗読箇所で、唯一言及される弟子の名前はユダ。受難物語の中に、晩餐の説教の中にイエスを裏切ったユダの名前が何度も出てくる。裏切り者の名前など、早く消し去りたいと思うのが人情だが、どの福音書も、彼が大事な役割を果たしたかのように、はっきりと記しているのはなぜか。それは、ユダに代表されるような、能力が高いが、もう一つ主の前で、自分の小ささを認めることのできない人間、そのような弱く、罪深い人間の世界に、主は人となって生き、苦しまれたことを思い起こさせるためかもしれない。
イエスが弟子たちから離れてゆく、最後の晩の説教のテーマは愛。「互いに愛し合いなさい」、それが、イエスが与える、新しい掟。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」、「そうすれば、あなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようなる」とも言われる。かつて、イエスは、数ある律法の中で、何が第一の掟かと、問われた時、「第一の掟は、心を尽くし、力を尽くして、神を愛すること」、第二は、「自分を愛するように、隣人を愛すること」と答えられた。そして、今、地上を去って行かれるにあたって、何よりも弟子たちに伝えたいこと、いわば、遺言は、もっと単純な掟、「互いに愛し合う」ということ。これは何を意味するだろうか。
この言葉をよく読むと、「互いに愛し合いなさい」という戒めの前に、「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉が加えられている。「互いに愛し合う」ということだけでも、どれほど難しいことか、わたしたちは経験上、いやというほど知っている。自分のことを第一にし、兄弟や家族のことを後回しにしがちなわたしたちにとって、自分のことを忘れて、相手のために尽くすことが、どれだけ大変なことか、身をもってわかっている。まして、「わたしが愛したように」、つまり、主イエスがあの武骨な弟子たちを愛されたように、互いに愛することなど、土台無理な話と考えたくなるのでは。
わたしたちの前には、立派な先輩が山ほどいます。殉教者たちがそうですが、たとえそのような血を流さずとも、小さな兄弟のために、自分のすべてを投げ打って尽くした人があふれるほどいます。たとえ聖人の列に加えられなくても、隠れたところで、家族のため、障害をもったこどものため、常時介護を必要としている病者、高齢者のために尽くしておられる方、コロナ禍で、いつも緊張を強いられて看病に当たられる看護師、治療に当たられる医師がおられます。
こうした方々の力はどこから来るのでしょうか。生まれ持った気質でしょうか。血のつながりだからでしょうか。特別な恩義を感じるからでしょうか。それもあるでしょう。しかし、人間が生まれ持った力は限られています。生まれたこどもが生命力にあふれていることは確かです。しかし、子どもも、外から栄養を与えられなければ、いつか命は尽きてしまうでしょう。人間の愛も同じです。だれでも、愛する力をもって生まれてきます。しかし、その愛を大きく成長させるために、外からの栄養が必要です。親から、大人から、仲間から、受け入れられ愛されなければ、愛はいつの間にか萎えてしまいます。
「わたしが愛したように、互いを愛する」ために、主ご自身の愛が必要です。聖人たちも、その愛をいただいて、愛する力を受けたはずです。祈りによって、黙想によって、ご聖体によって、ゆるしの秘跡によって。主の愛をいただかなければ、愛し続けること、愛する人になることはできません。み言葉と、聖体の秘跡によって養われる恵みを感謝しながら、一層、その愛に応え、兄弟を愛する力を願いましょう。(S.T.)