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教皇の意向:使命を担い合う (10月)

年間三十一水曜日(11月4)

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わたしと一緒に喜びなさい

フィリピ2:18

聖カロロ・ボロメオ司教

集会祈願

信じる者の光である父よ、司教聖カロロ・ボロメオの精神を、いつも教会の中に育ててください。神の民が絶えず新たにされてキリストに似る者となり、その姿を世界に示すことができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

???? 第一朗読 (フィリピ2.12-18)

 12わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。 13あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。 14何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。 15そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、 16命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。 17更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。 18同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。

???? 答唱詩編 詩編27 典73 ①⑥

答 神よ、あなたの顔の光を
  わたしたちの上に照れしてください。

神はわたしの光、わたしのすくい、
わたしはだれもおそれない。
神はわたしのいのちのとりで、
わたしはだれれをはばかろう。 【答】

神に生きる人々の中で、
わたしは神の美しさをあおぎ見る。
神を待ち望め、
強く、たくましく、神を待ち望め。 【答】

アレルヤ唱 典270 (23C)

アレルヤ、アレルヤ。キリストの名のためにののしられる人は幸い。神の霊があなたがたの上にとどまってくださる。A。

???? 福音朗読 (ルカ14.25-33)

ルカによる福音

 25〔そのとき、〕大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。 26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 29そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、 30『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。 31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。 32もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。 33だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

奉納祈願

恵み豊かな神よ、主の祭壇にささげる供えものを受け入れてください。見識に富み、徳に秀でた司牧者聖カロロを記念するわたしたちが、この秘跡の力に支えられて、信仰生活の豊かな実りを結ぶことができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

拝領祈願

いのちの源である神よ、聖カロロは司牧者の愛に燃え、忠実に使命を果たしました。主の過越の神秘にあずかったわたしたちに、同じ勇気と熱意をお与えください。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

祈る花:Inoruhana

???? 分かち合い

 イエスの弟子になるということは、師の教えを学び継承する、あるいは、何らかの資格を得るということではなく、イエスの生き方に全面的に倣うことを意味する。今日の福音の言葉によれば、自分にとって最も親しい家族、ひいては自分自身への愛を捨てること、自分の十字架を担うこと、そして、自分の持ち物を手放すこと。換言すれば、いい意味でも悪い意味でも自分を縛っているものから自由になること。そして、いつでも、どこへでも、何にでも、すぐに応じるこころ(用意があること)を持つこと、それだけが弟子になるための条件である。

 そんなことは、一見不可能に思えるが、ひとたび、そうしたことに勝る価値、宝を発見したなら、それが可能になる。その宝こそがキリスト自身である。わたしたちに先立って生きられた聖人たちは、まさに、そのような宝を発見し、そのために他のすべてのよいものを捨てることができた人たちである。殉教であれ、宣教活動であれ、奉仕の仕事であれ、そのような心をもって生きるならば、それが弟子としての道である。それができなければ、人間は必ず、何か別のものを求め、それに縛られて生きることになる。

 イエスには大勢の群衆が従ったが、皆が弟子になったわけではない。あえて、そんな道を選んだものだけが弟子になったのである。それは、選ばれたものにだけ与えられた道だろうか。主は、すべての人を招いておられるのだが。

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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