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心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。

マタイ18:3

聖クララおとめ

集会祈願

 いつくしみ深い神よ、聖クララは、主・キリストに従い、貧しいものとなりました。聖女の取り次ぎに支えられて、わたしたちも貧しさを愛し、あなたの国の喜びにあずかることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

🌸 第一朗読 (エゼキエル2:8-3、4)

 〔主は言われる。〕人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」 9わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。 10彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった。
 1彼はわたしに言われた。「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」 2わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、 3言われた。「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。」わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。
 4主はわたしに言われた。「人の子よ、イスラエルの家に行き、わたしの言葉を彼らに語りなさい。

🌸 答唱詩編 詩編119 典125①②

: 主よ、あなたは永遠のいのちのことば。

神よ、あなたはわたしのすべて。
あなたのことばをわたしは守る。
あなたの教えはすばらしい、
すべての金銀にまさる。 【答】

あなたのさとはとこしえに
わたしの宝、わたしの心の喜び。
わたしにいつくしみを現し、
おきてを授けてください。 【答】

アレルヤ唱 典272 ㊵

 アレルヤ、アレルヤ。わたしは心やさしく、へりくだる者。わたしのきびきを受けて、わたしにならいなさい。アレルヤ、アレルヤ。

🌸 福音朗読 (マタイ18:1-5、10、12-14)

マタイによる福音

 1そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 2そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、 3言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 4自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。 5わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
 10「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。 12あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。 13はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。 14そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

奉納祈願

 信じる者の光である神よ、聖クララの祝日にささげる供えものを受け入れてください。このとうとい秘跡によってわたしたちが、いつもあなたの愛に満たされて歩むことができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

拝領祈願

 父である神よ、主の御からだと御血によって強められたわたしたちが、聖クララの模範にならい、すべての地上の誘惑に打ち勝ち、まことの愛のいちにあなたに使えることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

🌸 分かち合い

 今日の福音書の後半は、主イエスが百匹のうちで迷い出た一匹をさがしに出かけたという話を語っています。「迷い出る」とは「横道へ逸れる」「道に迷う」などというニュアンスですが、イメージされる状況は、群を集めてみたら一匹見当たらないということでしょう。 羊飼いはそっくりな羊の微妙な違いを見分けることができ、それぞれに名前を付けていると言います。これは比喩的に、主イエスが一人一人の弟子を知り、見分け、その体調(霊的状態)をよくご存知であることを表しているのです。そして、ここでは、一人の弟子が誘惑に遭い、罪を犯し、神のもとから離れてしまったことが想定されています。

 この話を文字通りに取るということではなく、その羊飼いが一匹に対して抱いている関心の強さ、愛の深さです。私たちが主イエス・キリストのからだの一部です。誰一人として、罪がなくなったからキリストのからだの一部とされたのではありません。赦された罪人として、キリストのからだの一部分となったのです。ですから、主イエスが迷い出た一人の信徒を探し求めるとは、ご自分のからだの一部がなくなり、痛み、どうしても取り戻したくて歩き回るということなのです。私たちは、靴に小石が入るだけで歩きにくく感じるのではないでしょうか。指の一本でも怪我をすれば、生活が困難になるのではありませんか。主イエスにとって、一人の信徒が迷い出たというのは、まさしくそういうことなのです。

  「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなた方の天の父のみ心ではない」という結論が述べられています。確かに、慈しみ深い父である神はすべての人を救おうと思って、主イエスを私たちのところに送ってくださいました。主イエスは絶えず私たち一人ひとりを捜しまわって、十字架まで私たちのためにご自分のいのちを捧げてくださいました。

 この限りない愛に対して、私たちは感謝深い心を持ちながら、他の迷い出た人、特に貧しい人や苦しんでいる人などを捜しに出かけて、主イエスの道、神の慈しみを示すという使命を果たす必要があります。それができるために、聖霊の導きを願い求めましょう。

年間十九火曜日(8月11)
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