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教皇の意向:女性の役割 (4月)

四旬節第五主日A(3/26)

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“霊”は義によって命となっています。

ローマ8:10
集会祈願

🌸 第一朗読 (エゼキエル37:12-14)

 12それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。 13わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。 14また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。

🌸 答唱詩編 詩編 典

🌸 第二朗読 (ローマ8:8-11)

  8肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。 9神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。 10キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。 11もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

アレルヤ唱 典

🌸 福音朗読 (ヨハネ11:1-45)

ヨハネによる福音
 1ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。 2このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。 3姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。 4イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」 5イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。 6ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。 7それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」 8弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」 9イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。 10しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」 11こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」 12弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。 13イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。 14そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。 15わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」 16すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
 17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。 18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。 19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。 20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。 21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、 24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。 25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
 28マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。 29マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。 30イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。 31家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。 32マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。 33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、 34言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。 35イエスは涙を流された。 36ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。 37しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
 38イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。 39イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。 40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。 41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
 45マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 四旬節も進み、来週はいよいよ受難の主日、そして、聖週間に入ります。四旬節第五主日の今日の典礼のテーマは、復活、そして、終わることのない永遠の命です。

 第一朗読の「エゼキエルの預言」では、祖国を失ったイエスラエルが、ふたたび、かつての地に戻ってくる恵みを、墓に葬られたものが命に呼び戻されるイメージをとおして語られます。パウロの「ローマの教会への手紙」では、イエスを信じるもののうちに、イエスを復活させた方の霊が宿っていることを思い起こさせます。そして、福音では、ヨハネだけが記す、有名なラザロの復活についての感動的な話が読まれました。イエスは、愛する友、ラザロが病気であることを知らされても、すぐに出かけようとしませんが、二日後、ひそかにエルサレムに上られます。しかし、ラザロは死んですでに四日たっていたと聞かされます。ラザロの兄弟であるマリアとマルタ、また、近所のユダヤ人たちは、非常に悲しみ、しかも、イエスの来訪が遅かったことをいたく嘆きます。イエスも、そうした人々の悲しみを知り、ご自身も涙を流されたとヨハネは記します。

 かつて、第三修練中の病院実習をしていた際、一人の重病の患者さんが亡くなられました。たまたま宿舎で睡眠をとっていたとき緊急呼び出しを受け、駆け付けると、御遺体の前で、遺族の方から、もっと早く来て祈っていてくれたら、と涙ながらに訴えらえたことが今でも、忘れることができません。

 死は、人間にとって避けることのできない現実ですが、特に、若い人の死、また、まったく予想もしない死に対して、人は、どう表現してよいかわからないほどの、痛み・悲しみ・苦しみを経験します。そして、イエスご自身も、人が経験する死に伴う悲しみ、また、死の現実の前で人間が無力であることを思い、涙されたのです。

 しかし、イエスは、そうした愛する人の死を悲しむ人の代表、マルタの前で、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われます。イエスは、決して、死そのものをなくすことはなさいません。むしろ、厳しい死の現実を受け止めながら、死がすべての終わりではなく、死を超えて新たないのち、終わることのない命があること、しかも、それは命そのものであるイエスへの信仰によって与えられることを、ラザロを復活させることによって確認されます。墓に葬られたラザロは、体を縛っていた布を解いてもらい、再び、自分の足で歩く、生きたものとなったのです。

 ラザロはよみがえりました。しかし、また、いつか死を迎えたでしょう。終わりのない復活のいのちは、イエスの十字架の死をもって、はじめて、人々があずかることのできるものとなったのです。ラザロの復活は、来たるべきイエスご自身の復活の前表だったのです。

 わたしたちが生きる現実から、死を排除することはできません。親しい方の死は言うまでもなく、日々耳にする事故や災害による死、また、肉体の死だけでなく、激しい痛み苦しみから来る精神的な死、これも、人間の力だけで取り去り、解消することはできません。その人間の現実の中に、主イエスが人となって生き、自らも死を経験されたことを、わたしたちは知っています。同時に、その尊い死によって、人間が自らの力では到達することのできない、永遠の命がもたらされたことを信じています。

 間もなく迎える聖週間、そして、イエスの最後を記念する聖なる三日間を通して、この終わることのない命が、イエスご自身の死をもって、はじめてわたしたちに与えられたことを、一層深く信じ、悟る恵みを祈りましょう。(S.T.)

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

1 comments

  1. とりあえず福音冒頭。
    小林神父様の翻訳最高。
    確かしゅんちゃんのピアノレッスンをまゆちゃんと待っていたとき、
    まゆちゃんは秘密(祈る?ハナホットケーキ?!?)のことをしいて、僕は小林訳新約聖書ヨハネ福音書11冒頭を読んでいた。
    僕だったら
    一人の男が病んでいた。って書くかな。
    ああ、雨やまないかな。

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