♰ キリストにおいてすべてを新しく見る ♰

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教皇の意向: 新たな殉教者 (3月)

四旬節第一主日(2/26)

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あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ。

マタイ4:10
集会祈願

🌸 第一朗読 (創世記2:7-9、3:1-7)

創世記
 7主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 8主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。 9主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
 3-1主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
2女は蛇に答えた。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 3でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
4蛇は女に言った。
「決して死ぬことはない。 5それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
6女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。 7二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

🌸 答唱詩編 詩編51 典6①② 7①

🌸 第二朗読 (ローマ5:12-19、または5:12、17-19)

使徒パウロのローマの教会への手紙
 12このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。 13律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。 14しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
 15しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。 16この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。 17一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。 18そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。 19一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。 20律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。 21こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。

アレルヤ唱 典260 第一主日

🌸 福音朗読 (マタイ4:1-11)

マタイによる福音
 1さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 2そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 3すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 4イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」 5次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、 6言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」 7イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。 8更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 9「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 10すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」 11そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

奉納祈願

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祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 今日は四旬節第一の主日。先週の灰の水曜日から、復活祭を迎えるための約40日間の準備の期間に入った。この季節の間、施し、祈り、断食、といった務めを果たしながら、イエスの生涯の中のいくつかの大事な出来事や言葉を思い起こし、黙想する。そして、わたしたちが何を頼りに、何を信じて生きているか、あらためて思い巡らし、必要なら軌道修正をしながら、信仰者としての歩みを続けてゆくときだ。

 今日の福音では、イエスが公生活のはじめに受けられた荒れ野での誘惑のことが読まれた。「荒れ野の誘惑」と言うと、イエスラエルの民が、エジプトから解放されて約束の地に入る前に、40年間砂漠で過ごしたことを想い出す。イエスご自身も、それを思い起こしておられたに違いない。先ほど読まれたマタイの福音では、「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。」(1,2)

 「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と。パンは生きるために欠かすことのできないもの。戦火で家を失った人々、地震ですべてを奪われた人々にまず届けられるのは、生きるための食糧と水。それらが欠けたとき、人間は必至な思いで手に入れようとする。ときに、不正な方法に頼ってでも、必要なものを確保しようとするかもしれない。イエスは、そのような限界状況に自らを置かれる。しかし、イエスは、悪魔の誘惑を利用して尊い教えを語られる、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4)と。モーセが砂漠で、飢えたイスラエルの人々に語ったとされる申命記の言葉。そして、人々の飢えを癒すことのできるお方は、ご自分のために、その力を使おうとせず、むしろ、すべてを神の手に委ねられる。

 次いでサタンは、イエスを聖なる都の神殿の屋根の端に立たせて言う、「神の子なら、飛び降りたらどうだ」(6)と。そして、イエスラエルの人々が、日々唱えていた詩編の言葉を引用して言う、「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」(詩91.11∼12)と。イエスはサタンにはきっぱりと答える、「あなたの神である主を試してはならない」(7)と。あたかも神を試すかのように、深い思慮もなく、信仰に基づく決意もないまま、危険に身をさらしたり、自らの力を誇示したりする誘惑は、潔く退けるよう教えられるのだ。

 そして、悪魔は、最後の誘惑を試みる。イエスを高い山に連れて行き、すべての国とその繁栄を見せて言う、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と。人々が密かに抱いていたメシアの姿、力と権威に満ち、すべての国を従える王のイメージ。イエスの弟子、もっとも信頼していた使徒たちでさえ、そうした誘惑に最後まで惑わされていたことを福音書は隠さない。しかし、イエスは、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(10)と。どれほど、誘惑が大きくても、神でないものを神とする、それが、自分と、自分の家族、自分の属する組織、ひいては、自分の国に利することがあっても、神の存在を忘れ、それが、あたかも神であるかのような、最高の価値としてあがめることは、何としても慎まねばならないことをイエスは教える。

 自らの苦しい体験に基づいて編み出した「霊操」の中で、イグナチオは、「二つの旗」について黙想するよう勧める。キリストの旗と、ルシフェル(サタン)の旗。ルシフェルの旗は、富と名誉と傲慢。キリストの旗は、貧しさと侮辱と謙遜。どちらの旗のもとに生きようとしているか、黙想者に振り返りを求める。また、悪霊の働きと、神の霊の働きを見分ける知恵を教えられる。悪魔は、度々、よい仮面をかぶって人を悪に誘うことを、イグナチオ自身、いやと言うほど体験した。巧みな理由づけや、立派な言葉に惑わされない識別の知恵を身に着け、少しでも、神の望みが何であるか、神が、わたしに、今、何を望んでおられるかを、祈りを通して、学びを通して、少しずつ見極めることができるよう教える。

 今日の第一朗読(創世記)で読まれた最初の人間(アダム)の物語は、歴史的記録というより、人間そのものの現実を表わす神話的物語だ。「神のようになる」という、最も賢い生きもの、蛇の誘いに乗せられて、神の命令に背き、罪を犯し、神から離れた状況に生きる人間の弱さを記したもの。「極めて良い」ものとして造られた人間が、同時に、弱さに満ちた存在であることを、聖書は初めから明言する。

 そして、そうした人間の弱さ、無力さからの救いが、わたしたちと同じ人間となり、同じ誘惑を経験されながら、悪の力に屈することなく、神の意思を生き抜くことによって、わたしたちを救い、終わりのないいのちに導いてくださったイエス・キリストであることをあらためて心に刻もう。
 
 四旬節のはじめにあたって、わたしたち自身をはじめ、人間すべてが担う弱さ、みじめさを思いながら、その人間を愛し、生かし、導いてくださる主イエスに一層深い信頼をもって歩み続けることができるよう共に祈ろう。(S.T.)

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

2 comments

  1. 第一朗読最後。
    神はすべてを見て聴いておられるから覆って隠そうとしても無駄。
    そこで、神の御前に出ると詩編51。
    告解のあと、恵みに満たされ第2朗読。
    しかし、有頂天になっている私に誘惑する者が来る。
    まさに四旬節第一主日の福音。

    返信
  2. 命と善悪は、実は神のもの。

    神ではない人間が、人間を裁くことができるのか。

    いわんや死刑をや。

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