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教皇の意向:女性の役割 (4月)

主の洗礼A年 祝日(1/9)

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これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。

マタイ3:17
集会祈願

🌸 第一朗読 (イザヤ42:1-4、6-7)

イザヤの預言
1〔主は言われる。〕
見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ
彼は国々の裁きを導き出す。
2彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
3傷ついた葦を折ることなく
暗くなってゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。
4暗くなることも、傷つき果てることもない
この地に裁きを置くときまでは。
島々は彼の教えを待ち望む。
6主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び
あなたの手を取った。
民の契約、諸国の光として
あなたを形づくり、あなたを立てた。
7見ることのできない目を開き
捕らわれ人をその枷から
闇に住む人をその牢獄から救い出すために。

または使徒言行録10:34-38
 34〔その日、〕ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。 35どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。 36神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、 37あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。 38つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。

🌸 答唱詩編 詩編29 典23①②③

アレルヤ唱 典258 主の洗礼

🌸 福音朗読 (マタイ3:13-17)

マタイによる福音
 13そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。 14ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 15しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。 16イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 17そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたことは、どの福音書も、イエスの公の働きの出発点として記しています。
 洗礼者ヨハネが授けていた洗礼は、人々がメシアの到来に備えて、生活を悔いあらため、罪を告白し、そのしるしとして水に沈められることでした。罪を犯すことがなかった主イエスが洗礼を受けられたのは、あらゆる点で人と同じようになられたことの証しとして、言い替えれば、人々との連帯のために洗礼を受けられたと説明されます。
 マタイは、こうした人々の疑問を予見するかのように、言います、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのとこへ来られたのですか」と。それに対してイエスは言われます、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、われわれにふさわしいことです。」と。
 しかし、福音書がイエスの洗礼を、ことのほか大事にするのは、イエスが洗礼を受けた後にあったとされる、神秘的な現象によると思われます。共観福音書は、ほとんど同じ言葉で記しています。イエスが水の中から上がられると、「天が開け、霊が鳩のようにイエスに降り、天からの声―『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が聞こえた」ということです。水から上がられたイエスに、神の霊が聖霊の象徴である鳩のようにイエスの上に降り、そして、厳かな声が聞こえたのです。預言者イザヤが語った言葉が、そっくり実現した瞬間のように描かれています。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す」(42.1)と。
 イエスが約束されたメシアであり、神の子であるとの思いは、イエスの公生活の間に、弟子たちのうちに少しずつ芽生えていったに違いありませんが、受難と十字架の死によって、無残にも砕かれてしまいます。それが、もう一度よみがえり、真の確信になったのは、予想もしなかった、イエスの復活であり、復活したイエスとの出会いでした。そして、その確信を得た使徒たちにとって、イエスは、その働きの始めから、メシアであり、神の子であったと言う確信が、イエスの洗礼を、福音書の冒頭に置くことにつながったのでしょう。
 キリストを信じ、キリストに従って生きる者にとって、洗礼は、まさに、イエスが、その受難と死を通して、もたらされた類ない恵み、聖霊をいただき、神のいのち、永遠の命に与り、神の子とされることを意味します。主の洗礼の祝日にあたり、こうした恵みをいただき、信仰によってあらたな命に生きる恵みをいただいたことを感謝しながら、「神に愛された者、神の心に適う者」として生き、その恵みを人々と分かち合う力と導きをお祈りいたしましょう。(S.T.)

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
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