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教皇の意向:女性の役割 (4月)

待降節第三金曜日(12/16)

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ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。

ヨハネ5:35
集会祈願

🌸 第一朗読 (イザヤ56:1-3a、6-8)

イザヤの預言
1主はこう言われる。
正義を守り、恵みの業を行え。
わたしの救いが実現し
わたしの恵みの業が現れるのは間近い。
2いかに幸いなことか、このように行う人
それを固く守る人の子は。
安息日を守り、それを汚すことのない人
悪事に手をつけないように自戒する人は。
3主のもとに集って来た異邦人は言うな
主は御自分の民とわたしを区別される、と。
6また、主のもとに集って来た異邦人が
主に仕え、主の名を愛し、その僕となり
安息日を守り、それを汚すことなく
わたしの契約を固く守るなら
7わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き
わたしの祈りの家の喜びの祝いに
連なることを許す。
彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら
わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。
わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
8追い散らされたイスラエルを集める方
主なる神は言われる
既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。

🌸 答唱詩編 詩編67 典55 ①②

アレルヤ唱 典256 ⑩

🌸 福音朗読 (ヨハネ5:33-36)

ヨハネによる福音
  33〔そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。〕あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。 34わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。 35ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。 36しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。 

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 12月16日(金) ヨハネ5.33~36 「ヨハネは燃えて輝くともし火であった」と言われる。 共観福音書の中では、洗礼者ヨハネは、人々にメシアの到来を告げ、回心のしるしとして洗礼を授けるものとして描かれているが、ヨハネ福音書はそれとは違ったヨハネの姿を映し出している。ヨハネはイエスの最初の弟子をイエスに紹介した重要な師であり、同時に、福音書の序言にあるように、「光ではなく、光について証しする」(1.8)ものとして、控えめな役割が帰せられている。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(3.30)と語るのもヨハネ福音書の洗礼者ヨハネである。 「ともし火」と言えば、暗い夜道を照らす貴重な光だが、昼をつかさどる太陽が昇れば、役割を終える。闇の中では、どんな光であっても、人に希望を与え、行き先を示してくれる。人は、自ら光になろうとし、また、光のように輝く人に憧れる。しかし、人間の光はあくまでも限られたものであり、真の光の露払いでしかない。 ヨハネは、人々の注目を集めた「ともし火」であったが、光そのものである方が来られたとき、おのずと姿を隠すことになる。わたしたちも、ともし火になる使命をいただいている。しかし、それは、あくまで、真の光に人々が近づくため、光のありかについて証しする、道しるべのようなものであることを忘れてはならない。(S.T.)

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

4 comments

  1. 分かち合いにある言葉、まさに露払い。用心棒。

    ホイットニー・ヒューストンとケビン・コスナーが主演した映画『ボディー・ガード』を見た時、思わず泣いた。
    数十回は見た気がする。
    古今東西統合の映画。

    ラストシーンはラブシーンではなく、
    静かに詩篇23章が朗読される。

    返信
  2. そして福音。
    父が証ししてくれる、ということ。
    ここが世俗の法廷との決定的な違い。
    私自身、2011年3月11日直前2週間、あれこれ一生懸命メモしたり証拠化していたが(小さなテレーズが、死の直前、私が死んだら原稿をすぐ公にせよ、と言ったことを思い出してボクも焦っていた)、
    ことが起こる当日か、茶の間で父母と一緒にいる時、それに気づいた。
    つまり、天の父がすべて証ししてくれるということ。
    そして、聖パウロもネメシェギ神父も言っているが、キリストの福音を生きれば、必ず迫害を受けるということ。
    つまり、迫害自身が我々を神の子どもであると証ししてくれる。
    私は弟夫婦やその背後や周囲の人々や日本の世間並みの人々にむしろ感謝すべきだろう。

    2014年12月上旬頃、今はない新宿西口大戸屋で定食食ってる時にヨハネによる福音書16章冒頭が出た。フランシスコ会訳の脚注に「一般の人々だけでなく家族も迫害者となる」とあり恐ろしくなったことを覚えている。まあ、家族、親戚、故郷と言うから当たり前か。
    なんだか当たり前のことをつらつら書いてる気がしてきた。

    母は夕方ドライブしていて月が見えると「お月さんが笑ってる!」と言って笑った。
    ボクは母を見て笑った。

    パウロさんとネメシェギさんが笑ってる!
    きっと。
    でも小さなテレーズはじっとボクを見ている気がする。こわい。
    アビラのテレジアやマザーテレサと同じく鋭く、時に厳しい。
    「マザーテレサに怒られてる気がする」と言うと、いい神父様は「大丈夫、大丈夫。考えすぎだよ」って言ってくれた。

    今、久しぶりに犬がないた。起きよう。

    返信
    • まんじゅうこわい!と言うことわざ?が日本にはある。万歳!アーメン!アレルヤ!

      返信
  3. まず、第一朗読。
    今の現実という名の希望。
    「すべての民の祈りの家」となろう!
    「追い散らされたイスラエル」を集めよう!

    返信

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