教育にたずさわる人たちのために祈る (1月)

年間第三十主日C(10/23)

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へりくだる者は高められる。

ルカ18:14
集会祈願

🌸 第一朗読 (シラ35:15b-17、20-22a)

シラ書
 

15主は裁く方であり、
人を偏り見られることはないからだ。
16貧しいからといって主はえこひいきされないが、
虐げられている者の祈りを聞き入れられる。
17主はみなしごの願いを無視されず、
やもめの訴える苦情を顧みられる。
20御旨に従って主に仕える人は受け入れられ、
その祈りは雲にまで届く。
21 謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行き、
それが主に届くまで、彼は慰めを得ない。
彼は祈り続ける。いと高き方が彼を訪れ、
22正しい人々のために裁きをなし、
正義を行われるときまで。

🌸 答唱詩編 詩編34 典128 ①⑤⑥

🌸 第二朗読 (二テモテ4:6-8、16-18)

 6〔愛する者よ、〕わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。 7わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。 8今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。
 16わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。 17しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました。 18主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

アレルヤ唱 典273 30C

🌸 福音朗読 (ルカ18:9-14)

ルカによる福音
 9〔そのとき、〕自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 10月も後半になり、すっかり秋の気配が漂うようになりました。運動会も終わり、プロ野球もシーズンを終えましたが、スポーツ好きな日本人には、まだまだ、話題がなくなりません。今月の第二朗読では、聖パウロの手紙が読まれています。ユダヤ人でありながら、ギリシャ文化圏に育った聖パウロは、ときどき、信仰を競技場で走る人にたとえています。

 ユダヤ人は元来、スポーツとはあまり縁がなかったようですが、律法を守ることに関して言えば、他人に負けない、引けをとらないように生きること、それが自分たちの誇りだったようです。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。」若い時を振り返るパウロの言葉に、そんな雰囲気が読みとれます。今日登場するファリサイ派の人と税吏の話もそうしたことを背景に読んだらどうでしょうか。

 イエスの言葉は、たとえ話なので、多少誇張があるかもしれませんが、ファリサイ派の人の言いぶりには、どこか、他者との比較、さらには、優越意識が感じられます。「わたしは、ほかの人のように、奪い取るもの、不正な者、姦通を犯す者でなく、徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」

 人間は、とかく、他人と比較して自分を評価し位置づけようとします。わたしたちが生きる社会も、スポーツに限らず、いろいろな面で人を競わせ、評価し、序列化しようとします。それは、人間が自分を客観的にとらえ、より高い目標に向かって努力する刺激を与えるもので、一概に否定することはできません。しかし、それがすべてとなり、人間のそのものの評価となると弊害も少なくありません。勝つためには、手段を選ばない、という間違った考えを生む危険があります。

 神に選ばれた民、イスラエルの間にも、そうした傾向が少なからずあったことは、ファリサイ派の言動から推し量ることができます。律法を守ること、掟の道を歩むことで、正しいもの、神に喜ばれるものとなり、律法を守ることのできない者、掟の道から外れる者を罪人として裁いていたのです。今日のたとえに出るファリサイ派の人は、まさにそうした人の典型と言ってよいでしょう。

 しかし、イエスは、彼らと対照的に、掟を守ることができない、自分は罪人だとの自覚をもって祈る徴税人を神は「義とされた」と言われます。「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら『神様、罪人のわたしを憐れんでください』、と言った徴税人を「へりくだるもの」として、称揚されたのです。

 そこには、価値観の大きな転換があります。掟を守ることによって、自分の正しさを誇りとする者に対して、自分の罪深さを認め、神に憐みをこう者を良しとする、新しい見方です。ルカの福音の中で、珠玉のように輝く、「放蕩息子のたとえ」も、まさに、自分の罪深さを認め、赦しを乞い、悔い改めるものを良しとされる、神の憐みの愛を教えるものです。

 ただ、忘れてならないことは、そうした自らを正しいものと自認する者を神がお見捨てになったかと言うと、決してそうでないことも放蕩息子のたとえの父親は教えています。放蕩に身をやつし、回心して家に戻って来た弟を受け入れることのできなかった兄に対しても、父親は、愛の眼差しを向けます。この父親のように、自らの正しさを誇りに思う者をも、神は回心へと招いてくださるのです。

 「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」、その中に、わたしたちも含まれているかもしれません。自らの小ささ、至らなさ、罪深さを、新たな心で悟り、へりくだって主に祈る恵みを願いましょう。(S.T.)

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7 comments

  1. たかぶるものはへりくだる。
    はしゃぎすぎた。
    ふあんだ。
    あくたがわのくものいとのよう。
    だだ、かきとよーぐるとでひえたのではない。
    せいしょしゅうかんのくぎみやさんのぶんしょうでかるめりっとのゆうじんがすごい。
    あってみたい。
    そしてこころをきよめたい。

    返信

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