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一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。

ルカ15:10
集会祈願

🌸 第一朗読 (出エジプト32:7-11、13-14)

出エジプト記
 7〔その日、〕主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、 8早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」 9主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。 10今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」 11モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。
 13どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」 14主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。

🌸 答唱詩編 詩編51 典6 ①、7 ①③

🌸 第二朗読 (一テモテ1:12-17)

使徒パウロのテモテへの手紙
 12〔愛する者よ、わたしは、〕わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。 13以前、わたしは神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。 14そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。 15「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。 16しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。 17永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

アレルヤ唱 典273 24C

🌸 福音朗読 (ルカ15:1-32、または15:1-10)

ルカによる福音
 1〔そのとき、〕徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを話された。 4「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 7言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
 8「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 9そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 10言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
 11また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
 25ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 26そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 28兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 29しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 30ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 31すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 32だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 今年の待降節(11月27日)から、ミサの中で使われる日本語の式文が改定されることになり、間もなく、そのための準備が始まる。改定される個所の一つは、慣れ親しんだ「あわれみ」という言葉に代わって、「いつくしみ」という言葉が使われることである。ミサのはじめに歌われる「あわれみの賛歌」が「いつくしみの賛歌」となり、「主よ、あわれみたまえ」の代わりに「主よ、いつくしみをわたしたちに」と唱えることになる。しばらくは違和感を感じるだろうが、少しずつ慣れて行きたい。
 「あわれみ」という言葉には、人間のあわれで、みじめで、やりきれない状態に思いを寄せる、といった意味合いが強くあり、「あわれんでください」という言葉には、自分の今置かれている悲惨な状態から救ってください、という切実な思いが込められた言葉である。その意味で、「主よ、あわれみたまえ」という祈りには、叫びのような味わいがある。それに対して、「いつくしみ」という言葉には、すべての生きとし生けるものに注がれる神の大いなる愛、慈愛といった意味合いが強い。なぜ、「あわれみ」から「いつくしみ」に変更されることになったか、説明することはできないが、原文のーキリエ・エレイソン(ギ)、ミゼレレ・ノビス(ラ)―ということばには、両方の意味が含まれているのだろう。
 今日読まれたルカ福音書第15章は、有名な「放蕩息子のたとえ」が記されている箇所である。前半の「失われた羊」と「無くした銀貨」のたとえだけを読んだが、いずれも、イエスがファリサイ派の人々や律法学者の非難、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」を受けて、イエスが語られた話である。当時のユダヤ人社会の中で「罪人」と呼ばれた人々は、文字通りの、犯罪人のことではなく、彼らが何よりも大事にしてきた律法を守らない人、あるいは職業柄守れない人を意味していた。律法の教えに背く行為に走る、徴税人や娼婦、さらには、神を信じることのない異邦人も同様に罪人と見なされていた。そして、彼らとの接触を厳しく戒め、自らの正しさ、あるいは、清さを誇りに思っていた。
 そうしたいわば、ユダヤ人社会の中のエリートたちである、ファリサイ派の人々や律法学者に対して、イエスは、神の愛がどのようなものであるかを、たとえをもって示そうとされたのである。「罪人」と指さされた人の中には、それをまったく意に介さない人もいたかもしれないが、そうした社会的な差別を受けることから、自らの生活、さらには、存在にやりきれなさを感じていた人も少なくなかっただろう。そうした人々に、神の愛が及ぶこと、否、そのような人々にこそ、神の愛、父なる神の慈愛が注がれることをイエスは強調された。
 聖書に描かれた世界、ユダヤ人の世界だけでなく、人は生きる限り、必ず、どこかで、あやまちをおかし、その過ちを忘れることが出来ず、自分を、あるいは、人をゆるすことができないまま、日を重ねている。自分で自分をどうすることもできず、ひとり、人知れず、悩みを抱えたまま年を重ねているかもしれない。そのような人間に対し、イエスは神のゆるしの愛を説かれる。彼らはあたかも、失われた羊のように、なくした銀貨のように、さらに、家を出て放蕩に身を滅ぼした弟のように、父なる神にとっては、一瞬たりとも忘れることのできない愛する子なのである。この人間が発する「あわれみたまえ」との叫びに神は、「いつくしみ」をもって、近づかれる。否、その子が神に向って叫びをあげる前から、叫び求めるように仕向けられる。それが、神の「いつくしみ」の愛である。人間にとって、必要なことは、自らのみじめさ、弱さ、やりきれなさを認め、「あわれんでください」と心の中で叫ぶこと、それだけなのではないだろうか。(S.T.)

年間第二十四主日(9/11)
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3 thoughts on “年間第二十四主日(9/11)

  • 9月 11, 2022 at 2:07 pm
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    「主よ、あわれみたまえ」一番落ち着く言葉だ。
    あまりに状況が悲惨だと、敢えて見て見ぬ振りをしたり、人間のあわれみに期待したり拒否したり。また、あわれみという言葉自体が何か人のプライドを傷つける危険もある。あわれみなど受けたくはない、と尾崎豊は歌ったし、日本軍国主義教育を受けた私の父親もあわれみという言葉を嫌った。もっとも父親の場合、晩年、私に対し無防備となり、母の入院中、文語体の主の祈りを私が唱えるのを聴き、私がアーメンと言ってから暫く沈黙し、自分でもアーメンと小さく唱えて、今度はひとりで戦前幼き頃ルーテル教会のフィンランド人宣教師から教わった『いつくしみ深き』を途中まで歌い、時々『美空は晴るれど、、』という歌詞になり、ハミングしてから朝食を食べた。2018年4月30日私の祈りの中で帰天した。

    Reply
  • 9月 14, 2022 at 2:33 pm
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    分かち合いは量は半分になるのに満足感は二倍になる。期待と希望は違う。無防備の自分を他者にさらすことだ。

    Reply
  • 9月 16, 2022 at 4:47 am
    Permalink

    期待と希望は違う、か。
    うーん。そうかもしれません。
    子どもに対する期待は子どもにとって時に迷惑。子どもに対する希望は?
    否!ありのままの子ども自体が希望!!
    信仰!希望!愛!!!
    こどもと踊る三原則。
    ワルツは4分の三拍子。♫
    同じネタ使うあなたは認知症?
    あれ?こどもって同じこと繰り返し繰り返し言わない?
    繰り返し繰り返し、、ってセリフ
    Gメン75の黒木警視正?タンバタンバタンバリン?丹波哲郎じゃ!!映画「砂の器」か。
    朝からすみません!

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