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まず自分の目から丸太を取り除け

マタイ7:5
集会祈願

🌸 第一朗読 (列王記下17:5-8、13-15a、18)

 〔その日、アッシリアの王シャルマナサルは〕この国のすべての地に攻め上って来た。彼はサマリアに攻め上って来て、三年間これを包囲し、 6ホシェアの治世第九年にサマリアを占領した。彼はイスラエル人を捕らえてアッシリアに連れて行き、ヘラ、ハボル、ゴザン川、メディアの町々に住ませた。
 7こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から導き上り、エジプトの王ファラオの支配から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、他の神々を畏れ敬い、 8主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の風習と、イスラエルの王たちが作った風習に従って歩んだからである。
 13主はそのすべての預言者、すべての先見者を通して、イスラエルにもユダにもこう警告されていた。「あなたたちは悪の道を離れて立ち帰らなければならない。わたしがあなたたちの先祖に授け、またわたしの僕である預言者たちを通してあなたたちに伝えたすべての律法に従って、わたしの戒めと掟を守らなければならない。」 14しかし彼らは聞き従うことなく、自分たちの神、主を信じようとしなかった先祖たちと同じように、かたくなであった。 15彼らは主の掟と、主が先祖たちと結ばれた契約と、彼らに与えられた定めを拒〔んだ。〕
 18主はイスラエルに対して激しく憤り、彼らを御前から退け、ただユダの部族しか残されなかった。

🌸 答唱詩編 詩編130 典117①③

アレルヤ唱 典271⑯

🌸 福音朗読 (マタイ7:1-5)

マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 2あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。 3あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 4兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。 5偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 ある男の人はジョギングしていました。彼は綺麗な公園を通って走っていました。途中で休憩して、公園の中にあるベンチに座って水を飲みました。このベンチには、素敵な女の人も座っていました。この見知らぬ女の人は絵を書いていました。男の人は彼女に「その絵は綺麗ですね」と言いました。しかし、この女性は反応しませんでした。男の人はもう一度彼女に言いました。「私は悪い者ではなく、この絵は本当に素敵だと言いたいのです」。しかし、彼女はぜんぜん反応しませんでした。彼は、この若い女はわがままだ、傲慢な女性だと思ってしまいました。これを思ったまま、また走っていました。公園を回って、また先ほどの女の人のところに行きました。彼女はもういなくなりましたが、ベンチの上には絵が残っていて、メッセージも書いてありました。「わたしは耳が不自由な者です、もしお兄さんに対して悪いことをして迷惑をかけていたら、すみません」というメッセージでした。つまり、人を裁くのは頭の中から人に対して悪いことを思い始めました。まず、さばいた人は平和の心を持たずに、イライラしている気持ちになります。そして、さばきによって、人に傷をつけてしまいます。

 「裁く」とは、ある意味で、「優っているとする」という態度です。すなわち、自分のほうが誰かよりも優れているとするのです。そして、自分を正当化して、自己義の立場から見下ろし、あわれみのない裁きをくだします。あわれみなく、寛容さなく、赦しなく、ただ切り捨てるような冷たい裁きで終わるのです。性格が自分と合わないとか、物の考え方や価値観が違っているというだけで相手を低く見て、そして裁いて快感さえ覚えています。これに対して、教皇フランシスコは次のように言いました。裁きまたはうわさ話は人々の生活を破壊し、痛み、怒り、悲しみを引き起こします。

 つまり、今日の福音は山上の説教が続いています。今日の中心的教えは「人を裁くな」という一文です。この教えを実践するには、まず自らの高慢さを砕かなければなりません。山上の説教の最初の教えに立ち戻ってみますと、「心の貧しい者は幸いです」と、自分の内に何もないとわかるまでへりくだりにならなければならないと思い出しました。

 そうして、あわれみ深い者となり、平和をつくる者とまでなるのです。さばかない者となり、相手の目からちり(おがくず)を取り除くことができる者となるのです。先ずは自らが神の前にへりくだる習性を身につける必要があると思います。これはなかなか難しい気がしますが、神の助けによって、神のみ言葉を実行することができると思います。人を裁かないなら、豊かに生きて、憐れみ深い者となるでしょう。

年間第十二月曜日(6/20)
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2 thoughts on “年間第十二月曜日(6/20)

  • 6月 20, 2022 at 2:48 pm
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    今日の箇所は、マタイ4章の荒れ野の誘惑や5章38節以下の悪人に手向かってはならない、とも関連すると思う。
    まず私自身よく見えてない。今日の箇所が言う通り。
    仮に見えたとして、それは神の子としての頂いた恵みだから恣意に使えば逆にもっと悪い者になってしまう。相当歳をとって受洗した私はつい洗礼の恵みがうれしくて荒れ野の誘惑3つに、いずれも有頂天な気分で負けてしまったことに気付く。
    そして悪人に手向かってはならない、人を裁くなとは、裁かれないため、これ以上むやみ傷つかないため。
    互いに目にゴミが入っていれば互いに傷つけ合うだけだから。
    ただイエスは受難のとき右の頬を打たれたが左の頬を向けたりせず、「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」と言う(ヨハネ18章23節)。これは神でありながらその力を一切使わず違法不当な逮捕、拷問、そして十字架上の死に至るまで人間であることに徹した恐るべき天の父への従順と謙遜を貫いたイエスこそが有する裁きの力だと思う。
    イエスによって私の目が見えるようになったら今日の福音の直後にあるように有頂天に恵みをばらまくようなことをしないように気をつけたい。
    イエス自身が柔和と謙遜をイエスから学べと言っている(マタイ11章29節)。
    神の恵みの恐るべき偉大さゆえの死守すべき厳命のように思える。

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    • 6月 21, 2022 at 5:18 am
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      死守すべき厳命?!つい肩に力が入るのは悪いクセ。アルペ神父様の『キリストの横顔』を開いたらちょうど205頁に「謙遜とか柔和とか簡単に口にするが、実はそれを完全に身につけ、不自然でなく、自分のものとするのは容易ではないことである。その上、自分だけの力でこの徳が築き上げられるものではない。まず幼子のような心をもって、自分というものを全く無にして、天の父に頼り、恵を願うのでなければ、謙遜になることはできない。もし、外面的な行いだけで謙遜を得ようとすれば、卑屈となるだけである。」とあります。今まで
      自分というものを全く無にして、ってできないなあ、と思っていたけど、その直後にある、天の父に頼る、ロヨラのイグナチオが言うように、自分では何も出来ないかのように父に頼ることか、、と思う。ルカ11章24節以下の掃除し整えることも自己目的化すると最悪に転じる。あくまで他力のための自力。他力あれば自力不要??怠け者のストラテジー!?失礼!!

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