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教皇の意向: 新たな殉教者 (3月)

復活節第四主日(C)

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わたしの羊はわたしの声を聞き分ける

ヨハネ10:27
集会祈願

🌸 第一朗読 (使徒言行録13:14、43-52)

 〔その日、〕14パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。
 43集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。
 44次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。 45しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。 46そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。 47主はわたしたちにこう命じておられるからです。
 『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、
 あなたが、地の果てにまでも
 救いをもたらすために。』」
 48異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。 49こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。 50ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。 51それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。 52他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

🌸 答唱詩編 詩編 典

🌸 第二朗読 (黙示録7:9、14b-17)

ヨハネの黙示

 わたし〔ヨハネ〕が見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って〔いた〕。
 〔長老の一人が〕わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。
 15それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、
 昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、
 この者たちの上に幕屋を張る。
 16彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、
 太陽も、どのような暑さも、
 彼らを襲うことはない。
 17玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、
 命の水の泉へ導き、
 神が彼らの目から涙をことごとく
 ぬぐわれるからである。」

アレルヤ唱 典

🌸 福音朗読 (ヨハネ10:27-30)

ヨハネによる福音

〔その時、イエスは言われた。〕「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。 28わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 29わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。 30わたしと父とは一つである。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 5月になり、復活節も第四週に入る。この時期、福音で毎年読まれるのが、良い牧者についての話。今日の箇所は、ヨハネ10章の後半部分だが、前半には、馴染み深いよい羊飼いの話がある。よい羊飼いは、羊の名を呼んで導き出し、羊の世話をし、必要なときには、羊のために命を捧げると言う言葉がある。

 羊飼い(牧者)の話は、イスラエルの人々に馴染み深いもので、エゼキエルの預言の中にも、イスラエルの民を指導する人々のたとえとして語られる。牧者が本来の務めを果たさず、自分たちのことを優先させ、羊のことを心にかけない。イスラエルの王をはじめ指導者たちが自らの使命を果たさず、民の苦しみを放置している、そこで、指導者にかわって、神ご自身が牧者となって民を治めるという話し。

 初代教会が迫害下にあっても、大事にしたイエスのイメージは、牧者のイメージだったと言われる。ローマのカタコンベの中や、初期の絵図の中に、よい牧者の姿がよく描かれている。今日の「聖書と典礼」の表紙にある「良い羊飼い」のモザイクも、キリスト教が公認されて間もない時期に、ラヴェンナで描かれたもの。人となられた神の子、イエスは、まさに、よい牧者として、人々の世話をし、人々に生きる糧を与え、人々のために自らを渡されたことを教会は確信していた。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」とヨハネは記す。

 しかし、今日の第二朗読に選ばれている黙示録には、「小羊が牧者となり、命の水の泉へ導く」という言葉があった。よい牧者の話になると、とかく、羊飼い、牧者に関心が向きがちだが、黙示録の導きにより、小羊について少し考えてみたい。復活節の間、何度も、「過越しの小羊」という言葉を聞いた。ミサの祈願の中にも、復活賛歌や復活の続唱にも「過ぎ越しの小羊」という言葉があった。「過越しの小羊」と言えば、昔、イスラエルの人々がエジプトの圧政から解放されたとき、小羊を屠って、その血を各家の柱と鴨居に塗るようにとモーセは民に命じた。エジプト人の家では、初子が死ぬという災難が降りかかったが、小羊の血を塗ったイエスラエルの家の子はわざわいを免れた。それをイスラエルの人々は、毎年、過越祭のとき、小羊を屠って記念していたのだ。

 イエスが十字架上で亡くなられ後、弟子たちは復活の主に出会い、主が生きておられることを確信したが、教会は、では、あの十字架の死は何だったのかと考えた。そして、聖書(旧約)の言葉に照らされて、復活されたイエスは、イスラエルの人々が屠ってきた小羊にかわる新しい過越しの小羊、人々を罪の軛から贖い、解き放つ新しい過ぎ越しとして理解するようになった。洗礼者ヨハネが、イエスを弟子たちに紹介するとき、「見よ、神の小羊」と言ったのは、そのことを見抜いておられたのだろうか。ミサの中で、平和の賛歌を歌う時、「世の罪を除きたもう神の小羊」と言い、また、聖体拝領の前に「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い」と司祭がいう時、はたしてこうしたことを意識しているだろうか。

 先ほど読まれた黙示録の中には、「屠られた小羊」という言葉が何度も出て来る。たとえば、ヘンデルのメサイアで歌われる、「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方」(5.12)、とある。十字架上で亡くなられたイエス、いわば、屠られた小羊のように、無力で、物言わぬ存在となられた方が、今や生きて、神の右の座に着き、世界中の人々から賞賛を受けておられる。厳しい迫害の中にあって、イエスへの信仰ゆえに苦しみを受ける者に、黙示録の著者は、小羊の受けた栄光を讃えるものとなる光景を示し、「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導く、」と記し、「よい牧者」が文字通り、人々のために渡される小羊であることを、思い出させてくれる。

 こうした小羊である牧者に養われ、導かれていることを感謝し、わたしたちも、日々の生活を主に捧げ、人々のために惜しみない奉仕を実践しながら、主を賛美する人々の群れに加えられるよう祈りたい。(S.T.)

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
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