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教皇の意向:女性の役割 (4月)

受難の火曜日(4/12)

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主よ、あなたのためなら命を捨てます

ヨハネ13:37
集会祈願

🌸 第一朗読 (イザヤ49.1-6)

1島々よ、わたしに聞け
遠い国々よ、耳を傾けよ。
主は母の胎にあるわたしを呼び
母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。
2わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き
わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
3わたしに言われた
あなたはわたしの僕、イスラエル
あなたによってわたしの輝きは現れる、と。
4わたしは思った
わたしはいたずらに骨折り
うつろに、空しく、力を使い果たした、と。
しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
働きに報いてくださるのもわたしの神である。
5主の御目にわたしは重んじられている。
わたしの神こそ、わたしの力。
今や、主は言われる。
ヤコブを御もとに立ち帰らせ
イスラエルを集めるために
母の胎にあったわたしを
御自分の僕として形づくられた主は
6こう言われる。
わたしはあなたを僕として
ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。
だがそれにもまして
わたしはあなたを国々の光とし
わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

🌸 答唱詩編 詩編71 典146 ②③

詠唱 ア523 ③

🌸 福音朗読 (ヨハネ13.21-33、36-38)

ヨハネによる福音
 21〔そのとき、イエスは弟子たちとともに食事の席についておられたが、〕心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」 22弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。 23イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。 24シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。 25その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、 26イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。 27ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。 28座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。 29ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。 30ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。
 31さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。 32神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。 33子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
 36シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」 37ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」 38イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 ヨハネによる福音書は前半と後半があります。前半は最初から12章までで、後半は13章から21章になります。後半の初めは次のような言葉を語っています。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」主イエスが弟子たちを愛し、それもこの上なく愛し抜くというところから後半は始まるのです。

 今日読まれた箇所は、ヨハネ福音書の13章で、すなわち最後の晩餐で、主が弟子たちの足を洗われた後のことです。ここでは、特に、主イエスを裏切っているイスカリオテのユダが主イエスとその仲間たちから離れて闇の中を歩んでいることとペトロが主イエスを否定する予告のことが注目されているようになります。それは、弟子たちの中に、ある弟子は主イエスの愛を明らかに拒否して、ある弟子は自分自身への自信を持ちすぎて、結局、主イエスの愛をも否定してしまったのです。

 それにもかかわらず、主イエスは彼らを愛し、この上なく愛し抜かれています。主イエスは弟子たちにこう言いました。「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」

 まず、ユダヤ人が主イエスを捜します。それは二重の意味があります。他の箇所では、主イエスを逮捕し処刑するために捜すという形で出てきます。しかし、その一方で彼らは、実は、神の愛、命の光を捜し求めています。人間はそのような者として創造されているからです。生まれながらに神を求めるのです。

 ところが、この求めているものを抹殺しようとするようになってしまいます。アダムとエバが禁断の木の実を食べたとは、そのことを意味します。神の愛を求めつつそれを拒絶します。その結果、自分の罪のうちに死ぬことになってしまいます。ユダに起こったこともまさにそういうことでしょう。彼は主イエスの弟子になったほどに主イエスを求めたのだし、また主イエスに招かれもした人間なのですから。

 罪から立ち帰らない者は、決して主イエスの行く所、また主イエスのいる所、つまり神の住いに行くことはできないのです。捜し求めているのに、行くことが出来ません。捜し求めつつ、逆のことをしてしまうからです。愛を求めつつ、愛を破壊することをしてしまいます。

 しかし、この悲しい話の中で、主イエスは「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」と言われました。

 この「栄光」とは、主イエスの十字架の死のことであり同時に主イエスの復活のことです。十字架の死は即復活の命に繋がるのです。三日という時間的な隔たりがあっても、この十字架の死と復活は一つの出来事です。主イエスの十字架の死の中に復活の命があります。そこに神の栄光が現れ、また神が御独り子に与える栄光があります。主イエスにとって、ユダが夜の闇の中に出て行ったその時に、既に十字架の死は完全に確定したことなのであり、それはまた同時に復活が確定したことなのです。死の闇の中に永遠の命の光が輝き始めたのです。そして、その栄光において何が現れるか、何が明らかにされるかと言えば、それは神の愛なのです。人を真実に生かす力です。

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
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