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教皇の意向:女性の役割 (4月)

四旬節第四木曜日(3/14)

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聖書はわたしについて証しをするものだ

ヨハネ5:39
集会祈願

🌸 第一朗読 (出エジプト32.7-14)

 7〔その日、〕主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、 8早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」 9主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。 10今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」 11モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。 12どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。 13どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」 14主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。

🌸 答唱詩編 詩編130 典62 ①③

詠261 ⑬唱 典

🌸 福音朗読 (ヨハネ5.31-47)

ヨハネによる福音 

 31「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。 32わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。 33あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。 34わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。 35ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。 36しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。 37また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。 38また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。 39あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。 40それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
 41わたしは、人からの誉れは受けない。 42しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。 43わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。 44互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。 45わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。 46あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。 47しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 今日は、昨日のユダヤの宗教指導者たちに対するイエスの言葉の続きである。ヨハネの福音書は4つの点で、イエスの言うことの真理の証人は神ご自身であることを再確認している:

 洗礼者ヨハネの証言は、人間の証言に過ぎないが、証人となる(33-34節)。
 イエスの業は、イエスがなさるすべてのことの神的起源を明確に証言している:
 御父がわたしに完成させるようにとお与えになった業、すなわち、わたしが行っている業そのものが、御父がわたしをお遣わしになったことを、わたしに代わって証ししているのです。

 指導者たちはこれを見ることができなかったが、群衆はしばしば熱狂的に証言した(36節)。

 ユダヤ人の何人かはそれを直接見ていないが、父ご自身が証言しておられる:
 わたしをお遣わしになった御父ご自身が、わたしに代わって証言してくださった。あなたがたは、その声を聞いたこともなければ、その姿を見たこともない。

 おそらくこれは、イエスの洗礼、あるいは変容(37-38節)を指しているのだろう。

 聖句を注意深く読めば、それらがイエスを証言していることがわかる。
 あなたが聖典を探すのは、聖典の中に永遠の命があると思うからである。それなのにあなたがたは、いのちを得るために私のもとに来ることを拒む。

 このことは、後にイエスがエマオへの道すがら、二人の弟子に聖句を説明するときにはっきりと示されている(39-40節)。

 イエスは明らかに父の名によって来られたにもかかわらず、受け入れられず、信じられなかった。

 しかし、ある人は自分の名によって来て、彼を受け入れる。さらに彼らは、明らかに神から来られた方に目を向けるのではなく、自分たちの伝統に目を向け続けている。

 イエスは御父の御前で彼らを非難されることはない。彼らが信じていると主張するモーセが、彼らの告発者となるのだ。

 もしあなたがたがモーセを信じるなら、わたしを信じるだろう。モーセが私について書いたのだから。しかし、モーセが書いたことを信じないなら、私の言うことをどうして信じられるだろうか。

 「モーセ」とは、五書として知られる聖書の最初の五書を意味する。その著者はモーセとされているが、各部の年代を調べれば、そんなことはありえないことがわかる。古代においては、ある著作の著者を有名な人物とすることは一般的であった。

 このようなことは、私たちにも当てはまるのだろうか?新約聖書のキリストを信じるのか、それとも自分たちの望みに合わせたイエスを信じるのか。私たちは新約聖書(および旧約聖書)の神の言葉にどれほど精通しているだろうか。私たちは、復活のイエスが日々私たちの生活に神をもたらすのを、どこではっきりと見ているだろうか?

LivingSpaceより

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