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教皇の意向:女性の役割 (4月)

四旬節第四主日(3/27)

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子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる

ルカ15:31
集会祈願

🌸 第一朗読 (ヨシュア5.9a、10-12)

 9〔その日、〕主はヨシュアに言われた。「今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた。」
 10イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕刻、エリコの平野で過越祭を祝った。 11過越祭の翌日、その日のうちに彼らは土地の産物を、酵母を入れないパンや炒り麦にして食べた。 12彼らが土地の産物を食べ始めたその日以来、マナは絶え、イスラエルの人々に、もはやマナはなくなった。彼らは、その年にカナンの土地で取れた収穫物を食べた。

🌸 答唱詩編 詩編34 典128 ①②③

🌸 第二朗読 (二コリント5.17-21)

使徒パウロのコリントの教会への手紙

 17〔皆さん、〕キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 18これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。 19つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。 20ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。 21罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。

詠唱 典260 第四主日C

🌸 福音朗読 (ルカ15.1-3、11-32)

ルカによる福音
 1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを話された。
 11「ある人に息子が二人いた。 12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
 25ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 26そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 28兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 29しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 30ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 31すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 32だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 おととい、25日、ようやく下関でも桜の開花が発表されました。長く寒い冬が過ぎ、いよいよ春が来たという思いがありますが、人間の現実はなかなか、心の底から喜べる状態ではありません。四旬節も後半になり、復活祭も近づいています。そんな時期、今日のみ言葉はわたしたちに何を語っているのでしょうか。

 福音は、ルカだけが伝える有名な「放蕩息子」のたとえです。もともと、そのような見出しはついていませんでしたが、いつからか、そう呼ばれるようになっています。それでも、聖書によっては、その前に記されている「見失った羊」や、「無くした銀貨」のたとえに合わせて、「失われた息子」のたとえと記しているものもあります。いずれにしても、話の中心が、罪を犯した人間よりも、悔い改めて戻ってくるものをゆるし、受け入れる愛に溢れる神にあることを忘れてはなりません。

 たとえは、「ある人に息子が二人いた」と始まります。兄弟の話です。聖書には、『創世記』のはじめから兄弟の話がたくさんあります。今と違って兄弟が多かったこともあるでしょうが、そもそも、神は人間を一人だけでなく、複数の人間を造られたことが根本にあります。カインとアベル、ヤコブとエサウ、そして、ヤコブの12人の息子たち。そうした、広い意味での兄弟の中に生を受けるのが人間です。
たとえ一人っ子であっても、必ず、人生の中で、友人、遊び仲間等、兄弟姉妹のような関係にある人と出会い、かかわりを持つことは避けられません。兄弟であれば、当然、そこに違いがあり、上下関係・力関係が生じます。文字通りの力、運動能力、知的能力、人間関係上の能力、あるいは、見た目の良さ等。そこから、往々にして、妬み、恨み、憎しみ、コンプレックス、恐れ、怒りなどの感情が生まれます。それが高じて、喧嘩、争い、抗争に発展することもまれではありません。聖書の中には、そんな話が山ほどあることはご存じの通りです。

 さて、たとえは続きます、弟のほうが「お父さん、わたしがいただくことになっている財産の分け前をください」と。弟は、普通ならしない遺産の相続を先取りし、旅に出ます。なぜ旅に出たのでしょうか。ただ、父親から独立したかったのでしょうか。自分とは、いろいろな面で違う、いつも引け目を感じている兄から離れようとしていたのかもしれません。自分より父親に愛され、多くのものを父親から譲り受けていると思い込んでいる、兄の陰から姿を消そうと思っていたのかもしれません。

 その結果どうなったか、詳しく説明する必要はないでしょう。人間が父である神から離れて行く背景には、そうした兄弟の関係、人間同士の関係が絡んでいることは否めません。「放蕩」という言葉でくくられている弟の生き方には、兄のようにはなりたくない、自分は兄とは違う、そうした弟なりの自分探し、ありのままの自分でありたいという切なる願望があったのかもしれません。しかし、その行き着いた先は、予想とはまるで違うものでした。「豚の食べるいなご豆」さえ分けてもらえず、味わったみじめさと孤独、そして屈辱の極みでした。兄のいるあの父の家には、何もかも揃っている、大勢の雇人がおり、「有り余るほどのパンもある」。しかし、父を悲しませ、父の期待を裏切った自分はもはや父の息子として受け入れてもらう資格はない。雇人の一人としてもらおう、そう思って父の家に向かいます。しかし、父は、「まだ遠く離れていたのに、息子を見つけ、走り寄って首を抱き、接吻した」とあります。息子への叱責も、とがめだても、拒絶もありません。むしろ、そこにあったのは、破格の喜びと、歓迎、父のあふれる愛だけでした。

 父のもとで、父の望みに従って、いわば「良い子」として生きてきた兄には、父の愛が理解できません。兄の父に対する愛には、家を出た兄弟を受け入れる広がりがありません。兄の口から出るのは、父に仕え、父に従ってきた自分を正当化する言葉だけです。兄もまた、父のあふれる愛を学ぶ余地があったのです。

 人間は、神の前に、一人の例外もなく、自分を正当化し、他人を断罪する権利はありません。できるのは、自分の小ささ、弱さ、みじめさを正直に認め、ありのままの自分を神に披歴することです。そのとき、神は、すべての人を、どのような生き方をしてこようとも、受け入れ、喜び、祝うのです。

 今、この世界には、大きな暗い雲がかかっています。いつ晴れるともしれない、厚い雲です。「兄弟」と呼び合う人々の間で、生じた恐ろしい戦い、殺し合いが終結し、相手を一方的に非難するのではなく、自らの正当性を強調するのでもなく、人間を超えた大いなる存在の前に、各々が何者であるかを見極め、互いに和解を求めること。そうした恵みが一日も早く実現し、互いに抱く憎しみが解消され、相互に与えた傷が癒され、新しい兄弟としての関係を築くことが出来ますように、フランシスコ教皇の意向に合わせて祈りましょう。(S.T.)

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聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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